小林秀雄について(4)

 (3)を書いた時、私は「本居宣長」を用いて、小林が宣長を借りてどのように自己表現をしたか、ということを書きつなぐつもりだった。ところが、ふと「歴史」に寄り道してみようかという気持ちが兆した。
 小林秀雄歴史認識に関して論じた多くの文章の中で、ある意味で最も面白いのは、西村貞二の「小林秀雄と歴史」(『小林秀雄とともに』(求龍堂、1994年)所収)である。西村は小林の従弟に当たり、東北大学教授を務めた西洋史学者である。歴史学者の立場で小林の歴史に関する記述を点検し、その問題点を指摘する。例えば、小林がそのドストエフスキー論の冒頭に置いた「歴史について」という文章の中に、子を失った母親の悲しみに関する記述がある。

「子どもを失った母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくいたと語ってみても無駄だろう。類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎない。」

 これに対して西村は、次のように書く。

「子供の死は母親にとってはかけ代えが無いけれど、あくまで個人的な経験であって、天下国家の形勢には関係ない。日常些末事は少しも歴史的事実ではない。歴史的事実であるためには、その事実になんらかの意義なり価値なりが付着していなければならない。人の数ほどある歴史観なんていうものは歴史観ではない、それと同じ理屈である。」

 この部分にとてもよく表れている通り、歴史学者の立場で小林の歴史論を見る時、議論は全くかみ合わない。小林の側から見れば「的外れな批判」ということになるだろう。小林は歴史学者が見るのとまったく違う視点で歴史を見るのである。私が先ほど、西村の論を「面白い」としたのは、二人の立場がかけ離れているにもかかわらず、西村氏がそのことを気にすることなく、正面から生真面目に小林を批判するからである。およそ、小林秀雄の語ったことを糞味噌にけなすことにかけて、坂口安吾西村貞二は双璧である。
 小林は、歴史学者が問題とするように、現代との関係で過去の事実を眺め、その意味を抽出したりしようとしていない。あくまでも、歴史を作ってきた過去の人々の、その時その時の意識に寄り添おうとしている。これは、西村が言う通り、学問としての歴史とはまったく相容れない。あえて言えば、小林の歴史は「文学」である。だが、小林を読む以上、私たちはそのような小林の姿勢を、一応素直に認めなければならない。「歴史学の立場からすれば・・・」などということは言っても仕方がないのである。
 小林は、歴史を作ってきた多くの人々の生のかけがえのなさを大切にする。彼らは、自分たちの所行が数十年、数百年の後にどのように意味付けされるかを知らないし、そんなことを考えてもいない。常に「今」を必死で生きているのである。
 小林が歴史について語った中で最も有名なのは、太平洋戦争をめぐって戦後最初に発したと言われる次の一節であろう。

「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起こる。必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起こったか、それさえなければ起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。悧巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。」(昭和21年1月12日の座談会での発言。『近代文学』昭和21年2月号所載。)

 小林は、日中開戦後、満州を含む中国に4度、朝鮮に1度足を運んだ。太平洋戦争開戦後の昭和17年には日本文学報国会の評論随筆部会常任幹事となり、戦後は滅多なことで引き受けなかった講演活動を盛んに行っている。それらの結果として、昭和21年6月には、新日本文学会から戦争責任者として指名されるに至る。指名に当たって、上の言葉が問題とされたかどうかは知らない。(続く)