雄勝の「壁」

 3連休の中日、ちょっとした事情があって、家族で石巻市雄勝に行った。震災後2回目であるが、前回は確か2011年9月(震災後半年)だったから、10年ぶり以上ということになる。巨大な防潮堤建設に関するニュースや記事を見ては、「げんなり」と言うか「うんざり」と言うか、とにかく見てはならないものを見るのが怖くて、足を運ぶ気になんかならなかったのである。
 行きは女川経由で行った。リアス式海岸を行くうねうねとした道路が、トンネル等によって直線的になったのかと思っていたら、崎山公園を通らなくてよかったくらいで、これはさほど変化していない。
 一方、浜は劇的に変化した。北に向かう道路から見ると海は必ず右手にあるのに、桐ヶ崎、尾浦、御前浜などの集落名は左向き矢印で表示されている。国道より更に山側に集落が移った、ということだ。
 雄勝に何人の人が残ったのかは知らないが、こちらの変化も予想通りすさまじい。元の雄勝の町は本当に跡形もない。確かに、悪名高き高さ10mの巨大防潮堤が雄勝湾を取り囲んでいる。雄勝硯伝統産業会館や道の駅は防潮堤の高さまで盛り土された場所に、市役所の支所や郵便局はその更に上に建てられているので、防潮堤に対する違和感は全くない。むしろ、高い位置から雄勝湾を見渡せて気分がいいくらいだ。しかし、そこを過ぎて大須方面に進むと、盛り土されていないため、道路は防潮堤の基部まで下りてゆく。ここで「10m」の巨大さに圧倒される。意識していなければ、そのコンクリートの壁の向こうに海があることなんて全然わからない。娘が、「海が見えないって怖いね」と言っていた。全くその通り。美しいかどうかという景観上の問題もともかく、壁の向こうに何があり、何が起こっているかが全く分からないというのは不安なものだ。
 私は以前から、被災地で行われているこの種の巨大土木工事に強く反対している。美しい風景の喪失や、それが本当に防災に結びつくのかといった懸念もあるのだが、何より大きいのは環境負荷である。どれほど多くのダンプカーや重機が、山を削り、土砂やその他の物資を輸送し、消費したかを考えると、必死になって二酸化炭素を削減しなければならないという社会状況下で、「愚行」という以外の言葉を見付けることが難しいほどに愚かであると感じる。
 防潮堤を作るコンクリートは、石灰石を1400℃あまりに加熱して作ったものである。当然、それに費やされるエネルギーは膨大だ。今、ソースがどうしても探せないのだが、いつだったかのテレビ番組で、セメントを作るための消費エネルギーは、日本で消費される総エネルギー量の8%にもなると言っていたように記憶する。これが正しいとすれば、正に膨大だ。法律で許されているから、石灰石を掘ることも、輸入した石油でセメントを作ることも何ら問題のない行為のように見えるかも知れないが、法律で許されていることが「正しい」事だとは限らない。50年、100年(←これでも地球の歴史から見れば「一瞬」にすらならないほどの短い時間)というスケールで考えてみれば、この工事は明らかに間違いであり、異常である。
 ロシアがウクライナを侵略していることは、決して許せない暴挙であるが、根っこの所には、欲深い人間の姿がある。人間の欲望が様々に連鎖し、反応し合い、大きなひずみとなってロシアで爆発しているようにも見える。より便利に快適に、或いは、より大きな経済的メリットを得ることが大切だ、という価値観を問い直せないことが、人間をどんどん窮地に追い込んでゆく。破綻した時にしか人は気付けないのか。雄勝の防潮堤は、人間自身の壁である。