「学力」と「成長」

 先月の28日、文科省が、昨年度の全国学力・学習状況調査の結果に関して分析結果を発表した。どの新聞でも大きく取り上げていたのは、その中で、長期休校など、コロナに関するドタバタが、テストの結果に影響しておらず、学力水準は5年前と比べて下がっていない、という点であった。「ええっ!?まさか・・・」とは全然思わない。「さもありなん」である。授業時数が少々減ったって、学力なんて変わるわけがないし、そもそもそんなテストで計れる学力が、それほど大切なものだとも私は思わない。ただ、日頃から「授業時数の確保」にやたらうるさい文科省とすれば、甚だ不都合な結果かも知れない。
 学校は教科教育に専念すべきであって、あれこれ余計なことを抱え込むべきでないと日頃から言っている私としては、自分の言葉を裏切ることにもなるし、授業の価値を低くすれば、自分自身の存在価値を低めることにもなりかねないのだが、授業数の多少の変動によって学力なんて変化するわけがない。例えば高校の場合、学校生活で最も意味があるのは、3年間という時間である。先生が指導して伸ばすというのではなく、3年間という時間によって、生徒は自ずから成長する。この「自ずから」は「みずから」であり、同時に「おのずから」だ。その3年間には、多くの人との出会いがあり、多くの刺激がある。授業もその刺激のひとつであるに過ぎない。
 学力テストの点数を上げるには、ドリル的な単純反復学習が最もよい。しかし、そうして知識を身に付けたとしても、それはテスト用の知識であって、生きる力にはならない性質のものである。生きる力になる知識とは、例えば私の専門科目である国語の場合、文章に対する感動があり、その感動によってもっと読みたいと思い、読むために動員される知識である。そのような知識を得るためには、直接人と接して刺激を得る以外にはないだろう。
 コロナ対策の恐ろしいところは、そういう他人との直接的な触れ合いを大きく減少させた点である。マスクで顔を隠し、人と語り合いながら食べることが禁じられ、「密はいけない」と言って、友人と集まり、語り合うことにも苦言を言われるようになった。私が3月までいた学校でも、学校行事は続々と中止、集会はほとんど全てリモート、卒業式も卒業生と一部の教員だけ、離任式も卒業生は参加禁止、部活も断続的に禁止、放課後は一刻も早く帰れ、という具合であった。
 仮に学習状況調査の結果、点数が大きく下がっていたとしても、そんなことはたいした問題ではない。多少時間はかかったとしても、やがては解消されていくだろう。一方、人間関係に大きく規制が加えられたことによるマイナスは、点数のような分かりやすい形では外面化しないが、それによって健全な成長が阻害されたとしたら、言い換えれば、生徒が健全な人間観、社会観、世界観を身に付けられなかったとしたら、やがて社会を内側から蝕むことになる。そのダメージは非常に大きい。だからこそ、私は以前から、コロナが今程度の重症化率、死亡率であるなら、予防のための規制は解除すべきだと言い続けてきたのである。
 学習状況調査の結果が落ち込めば、文科省は鬼の首を取ったように「やっぱり授業時数の確保だ」と色めき立ち、「学力回復」のための施策として、パフォーマンス的で負担が重い様々な対策を現場に要求してきただろう。それが回避できそうなことは実に喜ばしい。だが、おそらく、文科省は今私が書いたような危惧は全然持っていない。私に言わせれば、人間の成長とか学力とかについての文科省の考えは非常に表面的で貧しいのである。