再論『人新世の「資本論」』(1)

 先日、斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書)を私は絶賛した(→こちら)。人から借りた本を3回読んでよれよれにして返し、その後、やっぱり欲しいなと思って買ってきて、また読んだ。
 ところが、4回読むうちに、当初の感動は薄れ、いろいろと問題を感じるようになってきた。前回書いた時には、かなり漠然とした書き方をしてしまったが、斎藤氏の主張というのは、次のようなものである。

「経済成長を目指し、矛盾を外部化してごまかすのは、資本主義の必然である。したがって、資本主義で温暖化は克服できない。温暖化を克服するためには、生産手段(コモン)を民主的に共同管理しながら、使用価値(商業的価値よりも実際に役に立つこと。例えば、高級なイチゴよりも米を生産するなど)重視の生産・生活様式に切り替えていく必要がある。それは、マルクス晩年の思想の実践でもある。」

 私は、この本を繰り返し読むうちに、後段はいわゆる「机上の空論」だと思うようになった。理由は二つある。
 ひとつは統治システムの問題だ。コモンの共有をどれくらいの規模で考えているかは分からないが、完全に平等な構成員による自治は難しく、やはりリーダーは必要であろう。ひとつの国、あるいは世界でどれくらいの数のコミュニティが必要だと想定されているかは知らない。だが、それぞれに一定の思想水準と行動力を持ったリーダーが存在し、その指導の下で、現在の価値観を捨てて生産に従事するなどということが起こるとは思えない。人は、何年先にやって来るか分からないような破滅的な温暖化による損害よりも、今目の前にある安逸な生活に執着して、そんな面倒な共同体作りをするわけがない。
 また、著者が言うようなコミュニティ作りの発想は、何も晩年のマルクスを持ち出さなくても得られるものである。じっさい、本の中で紹介されているデトロイトバルセロナの事例は、マルクスの思想を参考にしながら生み出された実践ではなく、結果として、それが著者の言うマルクス晩年の思想に一致していた、いうことである。
 ふたつめは、コモンの規模による豊かさの限界という問題だ。著者の論調からすると、コモンの規模は決して大きくないはずだが、極貧というような生活を想定している風ではない。その場合、コモンの中では調達できない物品というのが少なからずあるはずだ。生産規模が巨大だからこそ作ることができている物というのが、この世には多数存在する。自動車や家電など、「文明の利器」と呼ばれているもののほとんどが、それに該当するであろう。完全な民主的自治が可能なコモンで生産できるものなど、むしろ限られているはずである。
 こんなことに気付いてくると、最初に書いた通り、著者の主張はいかにも「机上の空論」なのだ。では、なぜ私が当初はこの本にひどく心動かされたのだろうか?おそらく、それは環境問題(温暖化)に対する強い危機感と、資本主義の枠の中にいる限り絶対にそれは克服できないのだ、という認識とによる。そこが、近年私が考えていることと完全に一致するのだ。それが、あたかもマルクス晩年の思想をヒントとして解決可能だ、というところに、私が思わず飛びついてしまった、ということだろう。(続く)