権力の性質(毛沢東の場合)・・・その2

 これらの方針の徹底として、毛は軍内に兵士委員会という組織を作った。これは大きな権限を持つ組織である。将校は、兵士委員会の監督を受けなければならなかった。将校が間違ったことをすれば、兵士委員会が制裁を加えることさえできたのである。
 これらの民主化は、当初こそ組織力強化のために絶大なる力を発揮したが、やがて弊害が目に付くようになってくる。時に毛沢東朱徳の指示さえも兵士から拒否された。それが戦争をする上でいい結果を生むなら良いが、実際には逆の結果となった。兵士たちの意見に従って行動した結果、負け戦を重ねたのである。
 戦争に勝てなければ話にならない。まして、相手は圧倒的な軍事力を持つ国民党である。前敵委員会書記という、紅四軍内でトップの地位にあったが、決して絶対的な権力を掌握したとは言えない毛沢東は危機感を持った。1929年5~6月に開かれた幾つかの会議の中で、例えば、毛は次のようなことを言っている。

「軍の指揮は集中して敏捷であることが必要だ。」
「思う存分仕事ができないにもかかわらず、責任は取らなければいけないというのでは、生きるでも死ぬでもない状態に陥ってしまう。私はそんな状態で責任を負うことはできない。すぐに書記を交替し、前敵委員会を辞めさせて欲しい。」

 つまり、毛が権力の集中を求め、その権力を持つのが自分だとしたとしても、それはいわゆる権力欲ではなくて、厳しい戦闘の続く中、自分が即断即決をしなければ、自分たち共産主義勢力全体の命が危ないという危機感だった。それは責任感であると同時に、自信でもあったのである。
 毛は結局、この後、前敵委員会のメンバーを改選した際、書記から落選した。元々「やっていられないから辞める」と自ら言っていたにもかかわらず、この選挙結果には衝撃を受けたようだ。毛は病気療養を理由として紅四軍を離れた。
 紅四軍を引っ張ってきた2人のうちの片方が、軍そのものを離脱するという事態の中で、組織は上海にあった党中央に報告と相談をした。その結果、中央は、毛沢東が前敵委員会書記であるべきだという結論を出し、紅四軍に指示を出した。その指示によって、毛が指導者であることを承認するために開かれたのが、古田会議である。
 ここは非常に重要な所である。と言うのも、毛沢東は基本的に上の言うことを聞かず、独自の考えにのみ従って行動する人間であり、上部組織からすれば、煙たい存在であった。しかも、1929年半ばから、毛は朱との間で軋轢を生み、紅四軍という組織の中でゴタゴタが続いていた。もしも、党中央が認めた「正しい方針」というものが存在するなら、誰かがそれに従って軍を指揮すればいいのである。軍人として極めて優秀であった朱徳が、その任に堪えないとは思えない。にもかかわらず、中央は面倒な存在である毛を、紅四軍の代表者と認めざるを得なかった。
 実際、それまでに毛がやって来たことは、どれもこれも極めて独創的で、しかもそれが優れた結果を出し続けてきた。コミンテルン(国際共産党)の影響を受け、都市の労働者によって共産主義革命が成就すると信じられていた時代にあって、毛はいち早く農村(農民)の持つ可能性に目を付け、都市を捨てて農村運動を展開した。圧倒的な軍事力を持つ国民党に対抗するため、昨日書いたような規則を作って軍の秩序を維持しつつ、民衆と結びついてその力を借り、ゲリラ戦を理論化した。いずれも、中央が否定していたことを毛は行い、結果として、それがことごとく上手くいっていた。一方で、都市に執着していた中央は、白色テロで気息奄々たる状況に陥り、毛のやり方を追認するようになっていた。
 宍戸勇氏は、毛を「軍師」であると評する。軍師とは、後方に在って戦略や作戦を考え、それを現場司令官に授けることで勝ちをもたらす存在で、中国では伝統的に文人であった。この点において、毛は正にかけがえのない存在だったわけである。
 いくら毛が強い権力志向の持ち主だったとしても、いくら毛が独善的で人の言うことを聞かない人間であったとしても、その時代が必要としていた能力を持っていなければ、絶対にトップの地位に就くことはできなかった。幸か不幸か、毛沢東にはその両方が見事なまでに備わっていたのである。

 古田会議に先立ち、毛は10日間以上にもわたる準備会議を開いた。そこで毛は、紅四軍内にはびこる様々な問題について自説を述べ、意見を募り、それに基づいて古田会議の決議を起草した。既に党中央によって毛が指導者として指名されている以上、単に指導権を掌握すると言うだけなら、そんな準備会議は必要ではなかった。このことから、毛は単に権力を手に入れることを目指していたわけではなく、紅四軍を本当に勝てる軍隊にし、革命を成就させたいという純粋で強い気持ちを持っていたことがわかる。

 古田会議は、強い中央集権制を作り出した最初の会議であると言ってよいかも知れない。後に朱徳の伝記『偉大なる道』を書いたアグネス・スメドレーは、「大会(古田会議)は、毛沢東の決議を採択した。それから、紅軍代表者たちは、それぞれの部隊に帰って全体会議を開き、決議が承認されるまで討議を続けたのであった」と書いている。もはや一般兵士が決議の是非を論じることは想定されていない。決議は「是」であり、それが納得できるまで論じることが「討議」であった。(続く)