権力の性質(毛沢東の場合)・・・その3

 紅四軍において指導権を掌握した毛沢東は、その指導権を強化するため、1930年12月に富田事件を起こした。党内に反革命組織がいるというタテマエの下、多くの党員を逮捕、処刑したと言われる。いかにも、紅四軍内での指導権を握ったことによって、仮面の下にあった本性が外に表れてきたという感じもするが、実はこの事件の詳細は定かでない。隠すからである。誰が隠すのか?それは現在の中国共産党だ。反革命組織の粛清なら、むしろ評価、喧伝していいはずなのに、中共中央文献研究室が作った、いわば中国政府公認の毛沢東伝(1996年)でも、毛沢東以外の人が勝手にやったような書き方をした上で、それを「錯誤」と評価している。
 ともかく、毛による粛清が行われたことと、それによって毛が周囲を萎縮させ、権力の強化を実現させたことはほぼ間違いない。最高権力者は、組織内の人物を殺すこともできるというメッセージは強烈である。その結果として、中央は危機感を抱いた。毛の威信が中央を上回るという危機感である。言い換えれば、毛沢東と中央との権力闘争で、毛が完全に勝利を収め、自分たちが立場を失っていくという危機感である。
 1931年に入ると、中央は、国民党による白色テロのため、組織が潰滅状況になりつつあったこともあり、毛の指揮する紅四軍が支配していた江西省へと移転する。片方は、オリジナルなゲリラ戦で根拠地を拡張させてきた毛沢東、もう片方は上海で組織を失いつつあった中央の周恩来、博古、項英、張聞天といった人々。実績から言えば、毛沢東の方が圧倒的に大きいように思われるが、組織としての秩序論から言えば、中央のメンバーが上である。中央は、元々煙たかった毛を失脚させ、毛が作り上げた組織の主要ポストを自分たちで独占した。
 国民党の領袖・蒋介石は、1930年末から1934年10月までの約4年間に、「囲剿」と呼ばれる共産党全滅作戦を5回行った。最初の3回は、まだ毛が共産党側の指揮官であった。毛は神がかり的な戦略能力を発揮し、反撃に成功した。第4回は、既に毛は失脚していたが、彼が根付かせていた方法論と、毛の後で指導的立場に立った周恩来らの方法論とによって、かろうじて撃破に成功する。しかし、純粋に中央のメンバーのやり方で戦った第5回で、ついに共産党は根拠地を放棄し、逃亡せざるを得ない状況に陥ってしまった。
 1934年10月、紅四軍を改変した第一方面軍を中心に、共産党勢力の中心部分が、後に「長征」と呼ばれるようになる逃亡を開始した。指揮官は博古と、モスクワに本部があった国際共産党コミンテルン)から派遣されてきた軍事顧問、ドイツ人のオットー・ブラウン(中国名=李徳)であった。彼らは、長征の途上でも負け戦を重ねた。そして11月末の湘江渡河作戦で2万人の犠牲者を出したところで、軍内の不満が高まり、彼らへの責任追及が始まった。
 博古と李徳が指導権を剥奪されたのは、1935年1月半ばに貴州省遵義で開かれた政治局拡大会議(通称:遵義会議)においてである。幹部の中には、やはり毛沢東でなければ勝てない、自分たちが生き延びるためには毛沢東が必要だ、との思いが生まれていた。中でも、強く毛を支持したのは、元々中央のメンバーではあったが、江西省で毛と接し、その主張を聞く中で毛の支持者となっていた王稼祥と張聞天であった。彼らは、モスクワ留学経験を持つ中共を代表するエリートであり、組織内での発言力は大きかった。彼らの支持によって、毛は中央政治局常務委員になった。2月5日には、毛に心酔していた張聞天が総書記となったため、毛の立場は更に強くなった。
 その後、毛が指揮する共産党軍は、巧妙な作戦によって国民党の追撃を振り切りながら、北へと向かった。ところが、3月、打鼓新場という所を攻撃するかどうかという問題で幹部たちがもめた。毛は攻撃すべきでないと言ったが、他の幹部たちは攻撃を主張し、最終的に攻撃と決まった。しかし、会議の終了後も納得できない毛が、当時の最高権力者であった周恩来を説き伏せた。それまでの戦闘で、毛の戦略的能力をよく知っていた周は、毛の意見を受け入れ、会議の結論を変更する。その上で、刻々と状況が変わる戦闘という場面では、指揮官への権力集中こそ必要だという毛の主張をも受け入れ、周恩来毛沢東、王稼祥という3人で軍の指揮権を持つことを他の幹部にも納得させた。形の上では、まだ上に周恩来がいたが、毛は実質的に最強の発言権を持つようになったのである。
 これが、毛沢東の2回目の権力掌握であるが、今回は中央のメンバーも含めた状態でトップに立ったわけだから、古田会議の時よりも大きな権限を手に入れたようにも見える。しかし、なぜ毛が指導権を掌握したかという点において、古田会議と遵義会議は基本的に変わらない。大切なのは、毛が権力志向を持ち、その意志を実現させるために権謀術数を用いたと言うよりは、彼の戦略能力を誰もが必要とした、ということである。(続く)