権力の性質(毛沢東の場合)・・・その4

 毛沢東が言うように、戦争では、常に臨機応変の迅速な判断が求められる。しかも、戦略能力というのは天賦の才能であるようだ。凡人が何人もで会議を開くのではなく、天才が一人で即断即決するのでなければ、勝ちは望めない。そんな中で、毛に権力を集中させるという判断は妥当であった、と私は思う。しかしそれは、あくまでも、ギリギリに切羽詰まった戦闘状態にある場合の話である。
 毛沢東の権力掌握過程が、その後どのように続くか、いちいち説明しているとかえって分かりにくいので、箇条書き風にたどってみよう。

1935年10月  長征終了
共産党の主力は、ついに国民党の追撃を振り切って、陝西省北部の共産党根拠地にたどり着いた。長征を成功させた毛は評価を大きく高めた。また、当時、陝北革命根拠地建設の功労者であった劉志丹らは、陝北における紅十五軍内の間違った反革命分子粛清行動によって監禁されていたが、張聞天と毛沢東が協議して釈放させた。これは、単に陝北の内紛を終息させたというだけでなく、中央の威信を示すことにもなった。

1938年4月   張国燾が脱党。
中国共産党発足時からの党員で、第四方面軍の指揮官であった張国燾は、毛らの第一方面軍と長征の途上で合流したものの、意見が合わず、その後独自に進路を決めて行動した上、従来の中央を否定して新たに中央を作るなど、分裂行動を取った。共産党が陝北に落ち着いた後、協調と懐柔に務めたが、最終的には自ら脱党し、国民党に身を寄せた。

1938年9月   コミンテルンからの指示
モスクワから戻った王稼祥が、毛が中共の指導者であるべきだという国際共産党コミンテルン)総書記ディミトロフの言葉を伝えた。王稼祥は江西省以来の熱烈な毛沢東支持者であり、ディミトロフの指示が文書で為されたものではないこともあり、この指示が本当にコミンテルンによるものかどうかは疑問が残る。

1938年11月  中共第六届第6回中央委員会全体会議
戦況の厳しさにより、1928年から1945年まで党大会を開けなかった共産党の、その期間で最大の会議。毛は「新段階論」と呼ばれる長い政治報告を行い、指導権が自分にあることを示した。長くモスクワに駐在し、コミンテルンの覚えめでたく、その威光を笠に着て毛の権力を脅かす存在であった王明を、この会議で毛は無力化したと言われる。この会議で、毛の権力掌握は完成したと言ってよいだろう。

1942年2月   整風運動開始
王明を完全に失脚させるために毛が発動した思想の引き締め運動。王明だけではなく、張聞天等の留ソ派(ソ連留学歴を持つエリート組)をも攻撃対象にしていた。これはやがて康生という陰険な人物が便乗的にあおり立てたことで激化し、文化大革命の原形のような形になっていった。

 さて、私が見たところ、毛の権力が「やむを得ないもの」から「余計なもの(横暴を伴うもの)」に変化を始めたのはこの整風運動からである。王明は既に無力化されていたし、張聞天にも毛にとって不都合なものはなかった。毛の言葉は金科玉条に近く、既にたてつける人間はいなくなっていたように見える。にもかかわらず、おそらくは虫が好かないという理由で、毛はその追い落としにかかった。この時期に毛に攻撃された人達の多くは、ソ連留学経験を持つなどのインテリであった。野人・毛沢東は、おそらくそのインテリ臭に我慢がならなかったのだ。
 また、整風運動には、1942年5月に行われた文芸座談会が含まれるのだが、そこで毛は、解放区の文芸工作者たちに、労働者、農民、兵士への服務を義務付けた。文芸工作者(作家や芸術家)が今日的な意味での文学・芸術を目指そうとする傾向に釘を刺したものである。私には愚民化政策に見える。発端は党幹部を批判した壁新聞だったことから分かるとおり、知識人が批判的精神を働かせ、自分たちの地位を脅かすことに、毛は脅威を感じたのである。
 それでも、まだまだ対日本軍の戦況厳しい時代の話である。張聞天攻撃は明らかに「余計」であったにしても、文芸工作者たちの自由主義的精神については、戦争遂行に必要な団結と統制にとってマイナスだったのは確かだ。その意味で、整風運動にも理解できる部分がある程度はある。
 1943年7月には、王稼祥が初めて「毛沢東思想」なる言葉を使い、同年12月には党中央が、「自分の行動が毛沢東同志の方向と一致しているかどうかチェックしろ(一致していなければ改めろ)」という通知を全組織に向けて発出した。それをほとんど追認する形で、1945年4~6月に開かれた第7回党大会で、毛は公式にその指導権を絶対のものとした。この後、8月に抗日戦争が終結すると、間もなく国民党との最終決戦(国共内戦)が始まり、1949年10月に中華人民共和国の建国が実現した。
 1942年、もしくはその前哨戦が始まった1941年秋から、明らかに毛の様子は変化しているのだが、既に毛が実質的な指導権を握っていた上、戦争が続いているうちは、毛への権力集中が必要だという共通認識があったため、それが問題視されることはなかった。そして実際、毛は建国に至るまでその軍師としての才能を発揮し続けたのである。(続く)