権力の性質(毛沢東の場合)・・・その5

 第7回党大会で、指導権を完全に掌握した毛沢東は、その後も戦略家としての類い希なる才能を発揮し、国民党に対しても勝利を収めた。
 問題は1949年10月5日の建国後である。共産党が連続した組織である都合で、毛の権力は新国家においても継承された。その時求められたのは軍事行動における戦略的能力ではなく、国家運営である。それについては、正に滅茶苦茶の一語に尽きる。国民党や日本軍からの攻撃を受けて立つ状況から、自ら何を創造するかという方向に変化した結果、創造すべきものを正しく見出せなかった、ということなのではないか、だからわざわざ敵を作り出し、その攻撃に血道を上げた、ということなのではないかと私は思っている。
 キリがないので、あまり多くは書けない。今回も経過を箇条書き風にしてみよう。

1950年 土地改革
 土地改革は地主や富農から土地を取り上げ、小作人に分配することなので、共産党の本来の仕事である。しかし、そのやり方が極端だった。本来「富農」とされるべきではないのに、誤って富農とされ、攻撃された人も多かったようだ。死者数は500万人前後に及んだと思われる。

1951年 三反・五反運動
 「三反・五反」とは、貪汚、浪費、官僚主義への反対(三反)と贈収賄、脱税、国会資材・原料・国家経済に関する情報の盗み取りへの反対(五反)。これもタテマエは間違っていないが、膨大なえん罪が生み出され、批判闘争の中で数十万人が死んだと言われるが、その多くは自殺だったようだ。

1957年 反右派闘争
 「百花斉放、百家争鳴」運動によって、自分や党、政府に対する自由な批判を強く奨励しておきながら、いざ人々が批判を口にするようになると、手のひらを返すように粛清に転じた。右派のレッテルを貼られた人は、少なくとも50万人を超える。

1958年 大躍進運動を開始
 生産量において、7年でイギリスに追いつき、8~10年でアメリカに追いつき追い越すという毛の掛け声によって生まれた異常な増産運動。毛は特に、鉄鋼の生産を1年で倍増させるという目標にこだわった。各所で強行されたゆがんだ発展によって、食糧生産が停滞し、3000万人以上の餓死者が出た。

1966~76年 文化大革命
 資本主義的傾向を持つ知識人や富裕層への批判闘争という名目で行われた権力闘争。毛の意志によって起こったものではあるが、毛の妻・江青を中心とする4人組と呼ばれる人達が自分たちの立場を強めるために煽り立てることで過激化した。毛への極端な個人崇拝の下、多くの知識人や党幹部が批判され、落命した。全貌はいまだ明らかではないが、少なくとも1億人以上が政治的打撃を受け、200万人以上が死亡、障害を負った者も700万人を超える。

 まったくすさまじい現代史である。特に目を引くのは、それぞれの事件での死者数だ。だが、必ずしも毛が悪いとは言えない。毛にほとんど何も言えないどころか、毛を教祖様と祭り上げ、毛が提起した問題を、毛の想定を上回る形で実現させようとした軽佻浮薄な多くの人々がいたから実現できたことである。それは、大躍進運動に最もよく表れている。空想的な目標が空想の中で肥大すると共に、成果を誇ろうとする意識によって誇大報告がまかり通り、しかも競い合って数字は大きくなった。
 毛は権力を掌握するために、或いは維持するために、意外なほど人を殺していない。スターリン的な意味での粛清は非常に少ないのである。上の各事件での死者数は、あくまでも失政によって生まれたものであり、毛が自分の権力のために殺したわけではない。
 毛に逆らえば殺される、という意識がなかったにもかかわらず、人々は毛の言葉に踊らされ、我先にとお先棒を担いだ。それによって暴走が起こる。宗教である。一度生まれた権力は、こうして自己増殖的に強固になるものらしい。(続く)