東洋文庫と仙台フィル第355回定期

 昨日は、午前中に多賀城市東北歴史博物館歴博)へ行き、午後は、仙台フィルの第355回定期演奏会に行った。
 歴博の特別展は「知の大冒険 ― 東洋文庫 名品の煌めき ― 」。東洋文庫とは、東京にある民営の東洋学文献センター(図書館兼博物館)である。国宝5点、重要文化財7点を含む、約100万冊の蔵書を持つ。「世界の五大東洋学文献センター」だという話も聞くが、その呼称が正式に通用するわけではないようだ。戦時中、空襲を避けるために宮城県加美町に本を疎開させたことがあるらしく、そんな縁もあっての特別展開催らしい。
 7年前に、『記録された記憶』(山川出版社)という、東洋文庫の名品を集めたカタログ風の本が出版された時、知人のご子息が執筆者に名を連ねていたこともあって、送っていただいた。パラパラとページをめくりながら、「さすがは東洋文庫だ。いろいろと面白い本を持っているなぁ」と感心していた。そこで、今回、歴博東洋文庫展が開かれると聞いた時には、「これは行かなくちゃ」と思い、そそくさと前売り券を買って楽しみにしていた。
 今回、宮城にやって来たのは100万冊のうちの約130冊。国宝は1点(『文選集注』平安時代中~後期)、重文も1点(『論語集解』鎌倉時代後期)。何しろ「本」で、基本的には文字が並んでいるだけなので、普通の人にはさほど面白い展覧会ではない。しかも、本へのダメージを最少限にするため、照明がかなり暗い。文学部の卒業生で、一応中国学徒である私は、それなりの思い入れをもって見ることのできる本が多いので、退屈はしなかったが、なにしろガラスケースの中に、特定のページを開いた状態で展示してあるだけで、装丁やら奥書やらを見ることはできない。昔の本というのは、文面もともかく、装丁が特徴的なものが多いのである。また、こうやって見てみると、やはり本というのは手に持って、そのずしりとした重さに著者の苦労や人類の知の蓄積を実感するところに良さがあるのだな、ということも再認識させられた。というわけで、仕方のないこととは言え、やや物足りなさを感じたのも確かであった。
 さて、午後は仙台フィルである。指揮は常任指揮者の飯守泰次郎、プログラムはブラームスのピアノ協奏曲第1番(独奏:菊池洋子)と交響曲第4番。飯守によるブラームスチクルスの最終回であるが、私が行ったのはピアノ協奏曲を取り上げた2回だけ(→前回の記事)。昨日も、目当てはピアノ協奏曲であった。何しろ、超大家ブラームスのピアノ協奏曲とは言え、私の音楽視聴者人生の中で、実演はわずか3回目なのである。とても貴重な機会だ。日頃、CDで「ながら聴き」が多いので、この際、じっくり聴いてみよう、というわけである。
 ところが、そのピアノ協奏曲にはさほど感心しなかった。なにしろ演奏時間が50分を超える体育会系の大曲である。それにすらりとした大和撫子が格闘する様は、少し痛々しい感じさえしたが、とてもよく頑張っていたと思う。「弾いた」ということだけでなく、内容的にも、だ。だが、いかんせん、オーケストラがパッとしない。ひどくまとまりのない感じがした。その上、今回強く思ったのだが、この曲はブラームスの作品の中ではおそらくさほど優れた作品ではないのだ。大器晩成型の作曲家ブラームスの、交響曲第1番に先立つこと実に17年、26歳の時の作品ともなれば、まずは仕方のないところであろう。アンコールにはブラームス作曲、コルトー編曲の『子守歌』(作品49-4)が演奏された。優しい佳品。
 一方、交響曲になるとオーケストラががらりと変わり、今回も非常に立派。いつになく音が分厚く、重厚な感じがした。それはブラームスにはよく合う。久しぶりで第4番を本当にじっくり聴いたという充実感があった。
 それにしても、飯守氏(81歳)を見るのはわずか半年あまりぶりなのだが、体の衰えがひどい。プレトークコンサートマスターの西本氏が代行。ステージに出てくるのもやっとで、指揮台まで介助の人が付き添う。おじぎもままならない。協奏曲はピアノの陰になってよく見えなかったが、交響曲はほとんど座って指揮していた。立っていたのは第1楽章の最初と最後2~3分ずつくらい。それでいて、飯守氏の実力なのか、オーケストラの努力なのか、演奏が立派だったからよいのだが、退任する来年春まで本当にもつのかな?そんな心配をするほどだった。