改憲論について今思うこと

 5月3日は憲法記念日であった。最近、ロシアの軍事侵攻という大問題が発生したため、「国防」ということについて多くの人々に心情的変化が生じたらしく、改憲派が勢いづいているという話は、どの新聞にも載っていた。
 今、私の目の前にある毎日新聞によれば、安倍政権時には改憲賛成が36%だったのに、岸田政権の今、44%にまで上昇しているのだという。分析として、ロシア問題ではなく、「集団的自衛権の行使容認に踏み切った安倍氏が20年9月に退任し、改憲への警戒感が薄れたことが影響したとみられる」と書いている。
 その分析が正しいかどうかは知らないが、「おいおい、待てよ」である。安倍も岸田も自民党である。党首の思想に多少の温度差はあるにしても、党としての姿勢にそうそう変化のあるわけがない。しかも、誰が首相をしているかによって、憲法を変えること自体が変な話だ。仮に岸田首相がハト派で、そうそう変なことはしないだろうと思うにしても、退任後、高市や稲田が首相にならないという保証もなく、では、その時また改憲する、などということが出来るはずがない。
 そもそも、私の個人的理解によれば、憲法というのは、時代が変化しても変えてはいけない根本理念を書いた文書である。党首が誰かによって変わってはいけないのは当然として、たとえ政権担当政党が変わっても変えてはいけない国作りの理念というものが憲法の中身だ。だから、時代の変化によって書き換えるなどということは、本来あってはならないことだと思う。憲法を時代に合わせるのではなく、憲法に合わせて時代を作るのである。
 とは言え、今回のウクライナ問題が衝撃的なのは、何も具体的に悪いことをしていなくても、外国から軍事侵略を受けるということがあり得る、ということが明らかになったことである。そうなると、「憲法に合わせて時代を作る」はきれい事。そんな立派な姿勢で生きていても、他国から侵略された時に無力ではどうしようもない、という意見にも理が生じてくる。
 ロシアのウクライナ侵攻が始まった時に、白旗を揚げてしまった方がいいのではないか?などという意見もそれなりに多く語られてはいたが、負けを認めて統治を受け入れてしまえば、ロシアから何をされても文句は言えなくなる。皆殺し、女性は全てレイプの対象になったとしても、である。勝った方がどのような統治をしてくるかなんて見当が付かない。白旗を揚げる時に、条件交渉をしたとしても、そんなものは容易に反古となり得る。正義とかメンツとかだけの問題ではない、「負け」を受け入れることはそのように難しく、覚悟の必要なことだ。困ったことに、戦争で勝つのは正しい側ではなくて、強い側である。
 これらを踏まえると、日本だって自衛は必要になるかも知れない。現在、憲法第9条との関係で言えば、自衛隊を作り、防衛戦争を認めているのは解釈改憲であり、本当は違憲だと私は思う。では、いっそこの際、改憲に踏み切ればいいと言えるかというと、やはり私は賛成しかねる。基本的に権力を信用していないからである。
 現行憲法があっても、解釈改憲で、集団的自衛権の行使まで容認できてしまうのである。それでも、現行憲法のおかげで、多少のブレーキはかかっているだろうと思う。現実に合わせる形で改憲してしまえば、憲法が現実に合ったのだから厳格に守る、ということはなくて、新憲法を基準に更なる解釈改憲が行われるだろう。そうして「現実」が連鎖していく。私はそれを危ういと思う。だったら、現行憲法を持ったままで、そこからの逸脱に対して批判の目を向け、権力者の側にも多少の「遠慮」や「ためらい」を持たざるを得ない状況を作っておいた方がいい。
 ロシアの軍事侵攻に対しては、国連憲章も無惨に無力である。魂の抜けた規則は、かくも惨めで無力なものかと思う。憲法だって同じこと。どうやって理念を実現するかという思いなしには、どんな条文も無力だ。憲法は元々、権力者が勝手なことをしないようにするための規則である(第99条)。衆議院の解散権(第69条?第7条?)を首相が濫用しないようにするための改憲なら、私も賛成するかも・・・。
 

注)私は過去に「こんな改憲論」を書いている。その考え方は決して間違っていないと思う。今回、第9条について上のような書き方をしたのは、考えが変わったからではなく、そんな改憲が非現実的だからである。