夢野久作の「能」論

 せっかく、立派なレポートを送ってもらったのだから、もう少し「能」に触れておこう。
 上田君のレポートに、夢野久作「能とは何か」が引用されている。怪奇小説作家(?)夢野久作が、能について一文を書いていたことにも驚いたのだが、内容としてはめっぽう面白い。調べてみれば、夢野は能を習い、人に教える立場にまでなっていたようだ。さて、表現も含めてあまりにも面白いので、上田君が引用している夢野の文章を、はるか昔に著作権が切れているのをいいことに、ここにもそのまま紹介することにしよう(「青空文庫」からコピペ。私がこれをもとに何かを論じると言うよりは、この夢野の文章を紹介することだけが今日の主題だと思ってもらってもいい)。最初は「能嫌い」という一節から。

「日本には『能ぎらい』と称する人が多い。否。多いどころの騒ぎでなく、現在日本の大衆の百人中九十九人までは『能ぎらい』もしくは能に対して理解を持たない人々であるらしい。
 ところがこの能ぎらいの人々について考えてみると能の性質がよくわかる。
 目下日本で流行している音曲とか舞楽というものは随分沢山ある。上は宮中の雅楽から下は俗謡に到るまで数十百種に上るであろう。
 ところでその中でも芸術的価値の薄いものほどわかり易くて面白いので、又、そんなものほど余計に大衆的のファンを持っているのは余儀ない次第である。つまりその中に『解かり易い』とか『面白い』とか『うまい』とか『奇抜だ』とか『眼新しい』とかいう分子が余計に含まれているからで、演者や、観衆、もしくは聴衆があまり芸術的に高潮せずとも、ストーリーの興味や、リズムの甘さ、舞台面の迫真性、もしくは装飾美等に充分に酔って行く事が出来るからである。
 然るに能はなかなかそうは行かない。第一流の名人が演じても、容易に共鳴出来ないので、座り直して、深呼吸をして、臍下丹田に力を籠こめて正視してもどこがいいのかわからない場合が多い。
『世の中に能ぐらい面白くないシン気臭い芸術はない。日増しのお経みたようなものを大勢で唸っている横で、鼻の詰まったようなイキンだ掛け声をしながら、間の抜けた拍子で鼓や太鼓をタタク。それに連れて煤けたお面を冠った、奇妙な着物を着た人間が、ノロマが蜘蛛の巣を取るような恰好でソロリソロリとホツキ歩くのだからトテモ退屈で見ていられない。第一外題や筋がパッとしないし、文句の意味がチンプンカンプンでエタイがわからない。それを演ずるにも、泣くとか、笑うとか、怒るとかいう表情を顔に出さないでノホホンの仮面式に押し通すのだから、これ位たよりない芸術はない。二足か三足ソーッと歩いたばかりで何百里歩いた事になったり、相手も無いのに切り結んだり、何万人も居るべき舞台面にタッタ二三人しか居なかったりする。まるで芸術表現の詐欺取財だ。あんなものが高尚な芸術なら、水を飲んで酔っ払って、空気を喰って満腹するのは最高尚な生活であろう。お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や、乙に気取った内容の空虚な処ばかりを取集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……』
 というような諸点がお能嫌いの人々の、お能に対する批難の要点らしく思われる。 」

 私も「九十九人」の一人である。特に、学生時代の私にとって、夢野の指摘は我が事以外の何ものでもない。あまりにも正鵠を得ているので、読んでいて爽快感を感じるくらいだ。もっとも、実は上田君は引用から省いている部分なのだが、「芸術的価値の薄いものほどわかり易くて面白い」には異存がある。悪しき芸術観である。本当に価値あるもので、大衆にも受け入れられるもの、それこそが最高尚な芸術であるべきだ。
 それはともかく、能を教授する立場にもあった夢野は、当然これだけで終わらない。「能好き」という一節が続く。

「ところがそんな能ぎらいの人々の中の百人に一人か、千人に一人かが、どうかした因縁で、少しばかりの舞か、謡か、囃子かを習ったとする。そうすると不思議な現象が起る。
 その人は今まで攻撃していた『能楽』の面白くないところが何ともいえず面白くなる。よくてたまらず、有り難くてたまらないようになる。あの単調な謡の節の一つ一つに云い知れぬ芸術的の魅力を含んでいる事がわかる。あのノロノロした張り合いのないように見えた舞の手ぶりが、非常な変化のスピードを持ち、深長な表現作用をあらわすものであると同時に、心の奥底にある表現慾をたまらなくそそる作用を持っている事が理解されて来る。どうしてこのよさが解らないだろうと思いながら誰にでも謡って聞かせたくなる。処構わず舞って見せたくなる。万障繰り合わせて能を見に行きたくなる。」

 鑑賞するだけではなく、実際にやってみると、その芸の面白さがよく分かるというのは、何も能に限った話ではなく、あらゆる芸について言えることだろう。面白さだけではない。難しさについても同様である。実際、能の動きというのはとんでもなく簡素、抑制されたものなので、私にでも簡単にできそうだ。だが、本当にできるとは思わない。私が簡単に真似できる程度のものに、人生を賭けている人がたくさんいるはずがない。
 しかし、「やってみたことのない人には分かりません」は、究極の拒絶である。そんなことを言ってしまえば、あらゆる表現芸術は、やったことのある人だけの内部世界になってしまう。上田君は引用していないが、夢野の「能好き」は、次のように続く。

「しかし、そんな能好きの人々に何故そんなに『能』が有難いのか、『謡曲』が愉快なのかと訊いてみても満足な返事の出来る人はあまりないようである。
『上品だからいい』『稽古に費用がかからないからいい』『不器用な者でも不器用なままやれるからいい』なぞと色々な理屈がつけられている。又、実際、そうには相違ないのであるが、しかし、それはホンの外面的の理由で、『能のどこがいい』とか『謡の芸術的生命と、自分の表現慾との間にコンナ霊的の共鳴がある』とかいうような根本的の説明には触れていない。要するに、『能というものは、何だか解からないが幻妙不可思議な芸術である。そのヨサを沁しみじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持ちになるのか説明出来ない芸術である』というのが衆口の一致するところらしい。
 正直のところ、筆者もこの衆口に一致してしまいたいので、この以上に能のヨサの説明は出来ない事を自身にハッキリと自覚している。又、真実のところ、能のヨサの正体をこれ以上に説明すると、第二義、第三義以下のブチコワシ的説明に堕するので、能のヨサを第一義的に自覚するには、『日本人が、自分自身で、舞か、囃子をやって見るのが一番捷径』と固く信じている者である。」

 能教授者である夢野が、弟子を獲得するために書いているのではないか、と少し勘ぐりたくなってしまう。だが、やはり、「やってみなくては分かりません」では困るのである。
 そういうことをぶつぶつ言いながら夢野の文章を読んでいて、私の頭に浮かんでくるのは、「読書百遍、義おのずから現る」という中国の格言だ。わけの分からないものは、繰り返してみるに限る。日頃の学校の勉強でも同じことだが、学ぶというのは、かけた時間に比例して何かが身に付いたり、理解が進んだりはしない。30回読んでもまったく理解できなかった文章が、31回目で突然分かり始めたり、更に50回読んでもそれ以上の意味が見えてこなかったのに、81回目を読むと見えてきたりする。理解はぎくしゃく進むものである。
 600年間、日本人が価値を認め、大切にしてきたものの価値が分からないというのは悔しいし、悲しい。かと言って、「分かった」という意識を捏造するようなこともしたくない。能の存在を念頭に置きつつ、折に触れて見る機会は作ってみよう。