野球の勝負の決め方

 なんとなく気になって、時々、法隆寺クラウドファンディングのページを開けてみる。本当にびっくり仰天だ。今日はついに1億円を超え、先ほど(22:20)改めて確認してみると、1億598万円にまで増えている。支援者数は5427人。「目標額(2000万円)に到達したから、もう今更私が支援しなくたって・・・」などとは思わず、我も我もと支援に参加している感じだ。
 今日、職場でPCの画面を見ながら某先生とそんな話をしていたら、どちらからともなく、「この際、集められるだけ集めればいいですよ。境内の整備とかだけじゃなくて、いろいろな建物や宝物の修理費用とかなんとか・・・」という話になった。残り期間は、まだ36日ある。いったい、寄付金額がどこまで増えるか、少し楽しみになってきた。
 ところで、我が職場は先週木曜日から、今週火曜日までが定期考査だった。前期中間考査というやつである。教科成績表の締め切りは来週の木曜日。これがとにかく忙しい期間だ。私が教員になった頃は、授業のない考査期間は、一息つける、のんびりとした時間だった。近隣の学校とソフトボール職員チームの交流試合をして、夜は飲み会とか、職場で芋煮会とか、そんな時間が取れたのである。ところが、年々多忙化が進み、今や考査とその直後の1週間が、他の時期よりも忙しくなってしまった。
 理由ははっきりしている。考査点以外の成績材料、すなわち平常点というものを重視しろという文科省からの圧力があり、その結果として、集めたくもないいろいろなものを集めては、チェックしなければならなくなったからである。「集めたくもないいろいろなもの」とは、ノート、問題集、プリントといったものの類いだ。「集めたくない」と言うよりは、「集める必要がない」、もしくは「集めない方がいい」ものである。
 今年度から、状況は更に悪化した。あらゆる成績材料を、考査の問題に至るまで、「知識・技能」に関する要素なのか、「思考・判断・表現」に関する要素なのか、「主体的に学習に取り組む態度」に関する要素なのか分けて、それを生徒にも明示し、それぞれの要素に関する点数を総合して、最終的な評点を出すことが求められるようになった。かつて「平常点」と言っていた、考査点以外の成績要素は「平常成績」と呼べ、「平常点」という言葉は使ってはならない、というお触れまで出た。
 どうやら私だけではなく、現場職員のほとんど全てが、この制度変更の意義を理解できていない。意義が理解できていない上に、細々した作業がやたらと増えるので、徒労感は非常に大きい。そもそも、考査問題を「知識・技能」に関する問題と「思考・判断・表現」に関する問題に二分しろというのが無理な話だ。更に、平常成績には「主体的に学習に取り組む態度」に関する要素が加わる。それぞれに関する評価を生徒に提示したところで、生徒が自分のよくできている点、あるいは不足している点がより具体的に分かったと言ってやる気を出すとか、自己分析を行うといったことは考えられない。何のためにこんな制度変更をしたのか、まったく分からないのである。いやいや、分かっている。それは「平常点」という言葉は使ってはならない、「平常成績」という言葉を使えという命令によく表れている。命令する側が、自分の支配下にあることを誇示するためなのである。だから、なおさらバカバカしい。
 更に、なぜいろいろなものを集めて点数化することが悪いかというと、教員の負担の問題も確かに大きいのだが、本当に悪いのは、「本末転倒」を起こすからである。
 つまり、本来であれば、生徒の学習状況を確認し、何かしらのアドバイスをする材料として、必要な場合に集めればいいもので、点数化も必要ではないものなのに、平常成績を出すためには何かの材料が必要で、しかも点数化が必須だから提出させる、ということになってしまう。生徒の側から見ても、ノートは授業の復習に使うために取るべきものなのに、平常成績を稼ぐための材料になってしまう。こうして、勉強は形式的となり、生徒は従順、受動的で、教師の顔色を窺うようになってしまう。
 200人以上の生徒が提出したノート等に目を通すのは過酷な作業である。各自が創意工夫にあふれた素晴らしいノートを作った日には、逆に採点者が困る。適当に5点とか、3点とかつけることはできても、生徒同士でそれらを見比べ、「どうしてこれが4点で、こちらは5点なのか?」とか質問に来られたら、説明はまず不可能だ。いきおい、授業中の板書を忠実に写してあるかどうかを一つの基準にせざるを得ない。主体的な勉強はするな、と言っているようなものである。
 野球の実力は、試合の結果に全て表れる。日頃からメンバー同士のコミュニケーションが取れているかとか、道具や練習場の整備をちゃんとしているかとか、素振りや走り込みをしているかとか・・・そういうことがきちんと出来ていないチームは負ける、できているチームは勝つ。それでいいのである。今の成績の出し方というのは、試合結果だけではダメだから、上の「メンバー同士のコミュニケーション」以下のような、日常の取り組みに関する様々な要素を全てチェックして、試合で取った点数に加味し、総合的に実力を測り、勝負を決めることにしよう、と言っているのと同じである。それが正しい実力評価方法とは思えない。なのに、なぜ勉強は考査点だけではダメなのだろう?定期考査の点数には、心構え(意識)を始めとして、日頃の様々な工夫と努力とが表れる。
 今日、同僚と話をしていたのだが、思えば、私のような世代の人間が学生だった時代、おそらく平常点はほとんど存在しなかった。あったとしても、気にしたことはなかった。ついでに言えば、理科や社会は全科目必修だった。今はそうではない。なぜ、東大卒の、お勉強がよくできた官僚たちが実質的に制度設計しているにもかかわらず、世の中というのは、これほどまでに間違った方向へばかり進むのであろうか。教員のなり手不足というのは、むしろ一般人が健全な証拠なのではないか、とすら思われてくる。(→参考記事「仕事を増やす制度変更」