国葬はすべきでない

 参院選直前に、「勘違い」による銃撃で殺された元首相について、早々と「国葬」を行う旨の決定が閣議で為された。予想したことではあったけれども、ずいぶん簡単に決めるものだな、と驚いた。更にその後、自民党の幹事長が疑義を示した野党を念頭に、「国民の認識とはかなりずれているのではないか」と語ったのには仰天した。何を根拠にこのようなことが言えるのだろう?おそらく、この人にとって、自分と考え方が違う国民は存在するはずがない、いやいや、存在すべきではないのであろう。それ見たことか、その後は、続々と異論が出てきているように見える。
 私は共産党の考えと一致する。国葬は間違いなく弔意の強制を生む。また元首相は、そのしたことについてかなりはっきりと賛否の分かれる人であった。首相在任期間が長かったことをもって、国民の圧倒的多数がその死を惜しみ、国葬を望んでいるなど判断することはできない。国葬を行うことで、安倍氏が全面的に肯定され、もしくは、肯定するのが当然だという雰囲気が作られていくことを、私は恐れる。当然、そうなれば、彼の「負」の部分は、うやむや、更には無いものにされる。少数意見を抹殺することにもつながるだろう。
 そもそも、私は政治家に国葬を行うことそのものに反対だ。政治というのは、安倍某という人でなくとも、絶対に賛否が分かれるものである。また、その評価は何十年か経たなければ定められるものではない。先日も書いたとおり、彼が成立に深く関わった法令は、全て効力を持っているからである。しかも、特にこの人が関わった国家機密法とかテロ対策特措法とか、集団的自衛権の容認(憲法第9条の解釈変更)といったものは、成立した時にはほとんど無色透明でも、長い時間の先に非常に危険な側面が顕在化する可能性を持っている。「死者にむち打つな」(先日引用した作家・高村薫の文章で、否定的に書かれていた言葉)などと呑気なことを言っている場合ではないのである。

 中曽根前首相の内閣・自民党合同葬は、約2億円の費用がかかり、うち1億円弱を国費から支出した。今回の国葬は、おそらく全額が国費だろうから、支出は2億円に及ぶはずである。海外に向けていい顔をしながらお金をばらまき、モリカケサクラで実質的な損害を国に与え、アベノマスクなどで無駄遣いをした安倍某は、死んでなお国に金を使わせるのか?
 この書き方はよくない。国葬を決め、国費を支出するのは安倍某ではなく、現政権である。安倍某の遺言でもない。目の上のたんこぶが消えて舞い上がったか、弔意の強制を通して何かよからぬことを企んでいるのかは知らない。ただ、その決定はあまりにも拙速で、冷静さを欠いている。「聞く力」を売りにしている首相のすることとは思えない。
 維進や国民民主党は、国葬には反対しないが、丁寧に説明することが必要だ、という立場だ。これも不愉快。国葬に反対している人は、説明が足りないために意義が理解できないから反対しているのではなく、国葬が間違いであることが分かっているから反対しているのである。結論を変える気のないただの説明だったら、それはまったく不要だ。
 かれこれ20年近く前、用事があって盛岡に行った時、帰りのバスまで少し時間があったので、地図を見ながらふと思い立って平民宰相・原敬の墓を訪ねた。墓の入り口に解説を書いた看板が立っていた。 それによれば、原はあらゆる位階勲等を拒否し、若い頃に洗礼を受けてクリスチャンとなり、死後は仏教寺院に葬られるにもかかわらず、クリスチャンネームや戒名ではなく、「原敬」という一個人として葬られることを望んでいたそうだ。そして実際、墓石には、何の肩書きも付けられず、「原敬墓」という文字だけが刻まれていた。実に潔い態度である。
 安倍元首相にもそのようであって欲しい。そして、現首相を始めとする与党の面々は、ぜひ、元首相を政治利用せず、原敬のような安らかな眠りにつかせてあげていただきたい。