「ご講話拝聴」の虚しさ

 朝起きてみると、素晴らしい「秋晴れ」である。湿度も非常に低く、水平線まで海がくっきりと見える。岩手県あたりで降った大雨の影響で、北上川からは濁った水が海に流れ込み、真っ青な海ではなかったけれど、本当に気持ちがいい。
 石巻は、水曜日から気温がすとんと下がった。木曜日からは夏日にもならず、朝は20℃を切っている。そう言えば、明日は立秋なのだけれど、また暑さがぶり返してくるらしい。
 さて、爽やかでない話の続き。
 学習指導要領という文書が法的拘束力を持つことは、既に判決が出てしまっている。それにしても、10年に一度必ず改訂され、しかも、必ず内容変更が行われる。それがいかに現場にとって負担であるかということは、既に書いた(→こちら)。今読み直してみてもまったく正しいと思う。
 最近、教員のなり手不足がよく問題になる。8月1日には、東北六県の公立学校で335人の欠員(不足)があることが、河北新報で大きく報道されていた(全国では2800人とかいうニュースも流れていたと記憶するが、今は記事が手元にない)。そんな時に必ず出てくるのは、病休(主に精神疾患)が多い、部活等の指導によって勤務時間が長く、ブラックだという認識が世間に定着しつつある、などの理由だ。しかし、一般の人達からは見えていないため、話題にならない問題も非常に多い。学習指導要領の内容や改訂の問題は、その典型であろう。
 国語に関して言えば、 特に、今回の改訂はひどい。科目の大幅な組み替え、その中で「文学国語」と「論理国語」なる科目を設定し、「論理国語」では文学を教えてはならないとして、教科書に小説を載せることを禁じた。「文学国語」は必修科目ではない。必修科目である「現代の国語」でも、小説を載せるのは禁じていたが、小説を載せた某社の教科書が検定を通過したのは、「読む教材」としてではなく、「書く力」を付けるための教材としてであるとされたことは、もめ事の原因となった(←当たり前=私の感覚。小説を「読む教材」として扱ってはならない、という意味分かりますか?)。これらのことについては、多くの作家や有識者から批判が為されたが、文科省は「どこ吹く風」である。成績の出し方についての無理難題も、上でリンクを張った記事に書いたとおりである。
 そして困ったことに、県の指導主事が文科省の言うことを金科玉条として下に下ろそうとするのは仕方がないとしても、現場の教員にも上の意向ばかり気にしている人間が少なからずいる、ということである。それによって管理職の座を目指そう、というのでは必ずしもない。「コンプライアンス」なる言葉を聞かされすぎた結果なのか、上の言うことに従うのは当たり前だという意識が染みついているのである。これでは、批判的なものの考え方ができる生徒など育ちようがない。
 政府が、10年に一度、ガラガラと制度を変えようとするのは、基本的に、自分たちの影響力を誇示したいからであって、そのことも上にリンクを張った記事で書いたとおりである。が、指導主事のご講話を拝聴しながら、もう一つ心に浮かんできたことがある。
 しばらく前にネットで読んだ記事なのだが、元中日ドラゴンズ森野将彦が、戦力外通告を受ける選手は、日々の練習を見ていれば分かると言い、その特徴を次のように語っていた。

「ひとつの事をやっていられない。何かすぐに変えてみようとする。探究心があるという見方もできるかも知れないけれど、何かを極めようともならない。」

 日頃私が、「参考書をたくさん持っているやつや、勉強の仕方をころころ変えるやつはダメ」と言っているのと同じである。自分がどのような勉強の仕方をしているかを考えてみるとよく分かるのだが、勉強などというのは非常にシンプルなやり方(繰り返し読む、書き写したり抜き書きしたりする、要約なり批判文なりを書く、憶えるべき事は無理矢理憶えるなど・・・)を徹底させる方がいいのである。「方がいい」というよりも、それ「しかない」のである。
 私が見たところ、人から国語の「先生」と呼ばれる立場にある人間でも、読み書き能力には大きな差がある。教員免許を持っていて、採用試験に合格しているから、だれでも同じだけの水準にあるなどというのは誤解である。その点に蓋をしておいて、制度や授業・評価の方法論をいくらいじってもダメである。自分で工夫するならまだしも、国が代わりにやり方を考えて与える、などというのは論外だ。にもかかわらず、そのダメなことを国が積極的に、先頭に立って推進しているのだから困る。制度はいじればいじるほど、上手くいかない時に、制度のせいにする人間を増やすことになる。それは大切なことから目をそらさせる、ということでもある。
 グループ毎の研究協議なる時間も含めて、正味4時間。なんだか虚しい時間であった。羨ましいなぁ、こういうことに疑問を感じず、「頑張ろう」と思いながら聴ける人。