統一教会問題より大切なもの

 前回このブログを更新してから1週間経った。なんだか、ずいぶん長い間書いていなかったような気がするが、しょせん1週間。
 前回、法隆寺について書いた日までが、私の夏休みだった。休みが明けて学校に行くようになってから、逆に頭が夏休みに入った感じであった。一応、世の中で何が起きているかは気にしていて、考えることもあれこれあったのだが、統一教会問題を中心として、マスコミの報道にさほど付け加えることがなかったのも、字を書く気にならない要因であった。
 今朝の毎日新聞1面トップは、内閣支持率が16ポイントも急落し、36%にまで落ち込んだ、というものであった。毎日新聞と社会調査研究センターによる世論調査だ。記事では、「内閣改造後の調査で、支持率が改造前より低下するのは異例」とコメントしている。
 そりゃあそうだろう。首相がお盆直前に内閣改造を言い出した時には、統一教会問題をうやむやにするためのものだろうと思ったが、驚いたことに、任命後に関係が明らかになる人がいるのはともかく、関係していたことが分かっていた人も任命している所を見ると、そうとも限らないらしい。杉田水脈議員の総務政務官就任など、「殿!気をお確かに」の世界である。お盆休みを直撃された中央省庁の役人の皆さんも気の毒だし、そこまでして内閣改造をする意味というのがよく分からない。
 前々から、政権が長期に安定しすぎて、当選6回、7回といったあたりの人達が大臣になれず、自民党内にどろどろと不満が溜まり、それがほんのちょっとしたきっかけで爆発しかねない、という噂は聞いていたから、そんな力学上の調整が必要になった、というだけなのかも知れない。おぞましい世界である。
 ともかく、毎日新聞の分析によれば、今回の内閣支持率下落の要因は、統一教会問題なのだそうだ。
 しかし、仮にそれが支持率急落の原因としては正しい分析だったとしても、それが本当に現政権の最大の問題かと言えば、私はそうは思わない。現在の最大の問題は、野党が臨時国会の開会を要請したにもかかわらず、それに応じようとしないことである。
 今更確認するまでもなく、日本国憲法第53条後段には、「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣はその召集を決定しなければならない」と書かれている。明らかにMUSTの規定だ。だが、要求があってから何日以内に、ということが書かれていない。そこで、与党はぬらりくらりと逃げまわる。今回も、当面は臨時国会を開催する気がないらしい。
 こういうのを、「法の精神を考えない」というのである。規則は、その条文自体に価値があるのではなく、運用によって具体化しなければ意味がなく、運用する時の解釈は、その規則を作った時の意図(精神)に基づいて考えられなければならない。
 どう考えても、書いていないというのは、いつでもいいということではなく、「すぐに」の意味だ。臨時国会の召集を求める議員は、目の前に国会の開会を必要とするほどの緊急案件がある、と判断しているわけだし、いつでもいいのであれば、「次の通常国会の時に議論しましょう」が許されることになり、規定の意味がなくなるからだ。
 思えば、臨時国会の召集を求められた時に、国会を開催しないという悪しき前例を作ったのも、安倍内閣だったのではないか。2017年に、期限の定めがないのをいいことに3ヶ月間も放置し、ようやく開いた臨時国会の冒頭で衆議院の解散を宣言したため、実質的には国会を開催しないのと同じになった、というやり方だ。その解散権も、「法の精神を考えない」恣意的な運用が目に余る。民意を問うという形式的な大義名分は立てるものの、実際には自分たちが勝てるタイミングを見計らって解散する。これも、なりふり構わぬ恣意的運用となったのは、安倍政権においてだったと思う。
 安倍政権の「罪」は、民主主義を骨抜きにしたことだということがよく言われる。本当にその通りだ。そして、よいことはなかなか行われず、行われても長続きしないのに、悪しき前例は確実に受け継がれ、ますます「法の精神」は忘れられていく。今や、「法の精神」が忘れられただけでなく、それを考えることの必要性自体が忘れられている。このことの深刻さに比べれば、統一教会問題なんて、しょせん各論部分における悪であって、まだ可愛いものである。
 世論調査のやり方(質問内容)の問題もあるのだろうけど、統一教会で支持率が下がったくらいでは、内閣にとって致命的な事態ではない。民主主義を骨抜きにされてしまうと、間違った世の中を回復させることがいかに困難となるか、まだまだ国民は気付いていない。今のロシアなんか、その前例に近いんだけどね・・・。