希望を探す

 石巻は涼しい日が続いている。昨日こそ少し蒸し暑かったが、今日は雨で肌寒かった。明け方、毛布を引っ張り出してきたほどだ。
 一方、気象情報を見ていると、西日本はぞっとするほどの暑さが続いている。何かの間違いで35℃(猛暑日)とかが2~3日続くというのは、石巻でも年に1度か2度ある。そんな時は精神的にも疲れ、体も重くなってくる。だから、そんな気温が1ヶ月も続く所というのは本当に大変だろう。
 さて、その石巻だが、学校に行くと、最高気温が25℃の日でも、26℃の日でも、教室や職員室ではエアコンが動いている。確かに、その方が空気がさらっとしていて快適だ。しかし、コロナ対策で「換気、換気」というものだから、教室などはエアコンが動いていて窓は全開、ということも珍しくない。
 人間というのは、持っている道具は使わずにはいられないのだな、と思う。どう考えても、本来は、多少暑くても我慢すべきであり、「危険な暑さ」の時だけ使うべきものなのに、少しでも快適な生活を求めて、あるいは、せっかく持っているのに使わなければ損だ、とでもいう感じでスイッチを入れる。
 エアコンだけではない。自家用車でも使い捨て容器や過剰な包装でも同じこと。それが資源を消費し、温暖化の原因にもなっているとは全く考えない。これだけ異常な気象現象が頻発しているのに、である。職員室から校門を見下ろしていれば、生徒を送迎する親の車がひっきりなしに出入りしている。雨の日や気温が上がる日は車の数が増える。高校生を学校に送迎するなど、私には世の中で最も無駄な石油の使い方に見える。大人が暇だから、そんなことをするようになる。その暇も、石油を燃やすことで獲得したゆとりである。
 異常な気象現象と言えば、ヨーロッパや中国、アフリカの干ばつは尋常でない。ダムが干上がって昔の村や遺跡が露出したとか、ライン川の水位が30㎝にまで下がって、物流に支障を来しているとか、発電所の冷却水を川から取れなくなって出力を落とさざるを得ないとか・・・。そして気温は40℃超で、山火事頻発だ。一方、パキスタンや日本は洪水。
 3年前、イギリスの新聞「ガーディアン」は、「気候変動」という言葉の使用を中止して、「気候危機」「気候崩壊」という言葉を使うと宣言したが、そのリアルさは年々増し、一方でこれといった対策は取られている感じがしない。必ずしも「政府が」というのではなく、そもそも「庶民の意識において」である。
 今朝の毎日新聞には、ロシアがヨーロッパへの供給を停止したことで余った天然ガスを焼却処分しているという、BBCの報道が紹介されていた。一説によれば、燃やされている天然ガスは、1日あたり14億円分近いという。身の毛のよだつような話である。
 私は、ロシアへの経済制裁で、ヨーロッパ各国がロシアからのエネルギー資源の輸入を止めれば、否応なく省エネをせざるを得ないことを歓迎していた。そうでもしないと、先進諸国の浪費癖は収まらないと思っていたからだ。もちろん日本も同じことである。
 ところが、今日の新聞を読むに、ヨーロッパが天然ガスを購入しなくなれば、ロシアはバルブを閉めるか何かして、天然ガスの採掘量そのものを減らすと思っていたら、どうもそれはできないらしい。だから、売り場のないガスは燃やすしかない、ということなのだろう。ロシアが余ったガスを燃やし、不足に悩むヨーロッパが別の所からガスを輸入して燃やせば、輸送に費やすエネルギーも含めて、消費は増えるばかりだ。日本の石炭火力発電所を厳しく非難していたヨーロッパで、暫定措置とは言え、石炭への回帰という話も聞こえてくる。今や世界は、まったくそんなことをしている場合ではない。もちろん、戦争をしている場合でもない。
 身の回りで起きていることも、世界で起きていることも、全く性質が同じ一続きのものである。とにかく、発明したものは絶対に使わずにはいられない。そこに、本当に必要なの?と疑いを差し挟むこともできない。温暖化の深刻化などと言うのは、誰の目にとっても明らかであるはずなのに、それはそれ、これはこれ。不都合なことには目を閉じる。いよいよもって地球は壊れる。おそらく止められない。しかもそれは目前だ。
 人間は、希望を持ち、可能性を信じることなく生きていくことはできない。まして私のように教育職にある人間は、それができなければ「教育」という仕事そのものが成り立たない。人間の欲深さ、愚かさのためにガラガラと壊れていく地球を目の当たりにしながら、こじつけでも何でもいいから、人間には正しい道を見つけだし、自分たちの問題を克服する能力がある、という希望や可能性への確信を持たなければならない。私にとって、とても難しいことだ。日々そのために必要なエネルギーの量が増えていく。