コロナの中の文化祭

 そう言えば、先週の土曜日、娘の高校の文化祭を見に行った。娘は高校3年生。コロナ対策で、3年生の保護者だけは、事前登録制で入場が許可される仕組みになっていた。
 娘が出場するクラス・パフォーマンスの直前に高校に行く。それなりに保護者の姿は見える。体育館に入ると、3年生と保護者の席だけがある。1、2年生は、その中継を教室で見るのだそうだ。昨年、それを経験した娘は「死ぬほどつまらなかった」と言っていた。もちろん、屋台が出ていないどころか、飲食は完全に禁止だ。
 私が勤務する学校の文化祭は、1ヶ月半後に行われる。入場者をどのように制限するか、言い方を変えれば、どこまで入場を認めるか、今議論をしている最中である。
 今の3年生は、例の「安倍の一声」でコロナ休校に入った時に入学した生徒たちだ。3年間の全てを、コロナの制約の中で過ごしてきた。常にマスクをしたままで、友達や先生の顔もよく知らず、学校行事でまともに行われたものなどひとつもない。
 当たり前のことだが、高校生活は3年間である。例えば、ひとつの行事を3年間中止にしてしまうと、生徒の中に、元々それがどのような行事だったのか、どころか、そんな行事があったことさえ忘れられてしまう。物事をゼロから作り上げるのは大変だし、いいものを作ることが出来ない。人間は、今までのやり方を知っていた上で、それに改良を加えながら、少しずついいものにしていくのである。だから、高校でひとつの行事が3年間行われない、あるいは、元の形で行われない、というのは、ほとんど致命的と言ってもよいほどの問題だ。
 コロナによる生活制限が問題となる場合、必ず問題になるのは経済活動との兼ね合いだ。経済活動との兼ね合いしか問題にならない、という言い方の方が正しいかも知れない。感染を抑制するために、様々な社会的制約を加えると、飲食業、輸送業、観光業を始めとして、成り立たなくなる業種がある。それは問題だ、と言うのである。もちろん、それは決して間違いではないし、そのことを軽視するつもりもない。しかし、私が前々から言うとおり、コロナの影響で最も深刻なのは、子供の発達への影響である。
 経済的な問題は、補助でも保護でもどうにでもなる。顔=表情の見えない世界で、「密」になるなと言われ、会食することも歌を歌うこともできず、豊かなコミュニケーションを失い、健全な社会性を身に付けられなかったら、そんな彼らが作る社会もまたゆがんだものになってしまう。その回復は非常に困難だ。マスク、手洗い、消毒の徹底を強いられ、清潔すぎる環境の中で免疫力を付ける機会を奪われること、そうして人間が脆弱になってしまうこともまた危険であり、大きな社会的不安要素だ。なぜ、世の中はそんなことを問題にしないのだろう?
 最近の子供は、変に大人である。外交辞令の使い方を心得ている、と言ってもいいかも知れない。制限だらけのつまらない行事でも、必ず、「コロナ禍にあって、行事が中止されることなく、このように開催できることに感謝したい」みたいなことを言う。しかし、それを真に受け、彼らがそんな行事を喜んでいると誤解しない方がいい。また、仮にそれが本心だったとしても、それによる悪影響から逃れられるというものではない。
 娘の学校の賑わいのない文化祭を見て、私は子どもたちが可哀想だという気持ちよりは、彼らの健全な成長はどれだけ実現するだろうかという危機感の方がやはり強い。仮にコロナ禍が完全に収束したとして、来年度、今の1、2年生が、本来を越えないまでも、本来に近い文化祭を企画・運営できるのかどうかも心配だ。
 人間は易きに流れる動物である。文化祭が規模縮小され、ノウハウも継承されなくなってしまうと、かえって楽でいいや、文化祭なんかなくたっていいんじゃない?という意見も出て来かねない。世の中はとにかく、価値あるものは壊れやすく、困ったものほどはびこりやすいのである。