国葬に表れたもう一つのゆがみ

 まず最初に「懺悔」をしておこう。
 7月初旬に、安倍元首相が殺された時、私はそれを「勘違いによって殺された」と書いた(→こちら)。ところが、実際には「勘違い」どころではなく、正に怨みを持つべき理由があったのだ、ということが日々明瞭になってきた(だから殺されたのも仕方がない、と思うようになったわけではない。誤解なきよう・・・)。私は自分の不明を恥じる。
 さて、世間では、自民党、もしくは政治家と旧統一教会との関係が明らかになるにつれて、国葬に反対する人が増えてきたというような報道がなされているが、私のメモによれば、7月31日発表の共同通信社による世論調査以来、国葬賛成が反対を上回ったのは、8月8日に発表された読売新聞とNNNによる世論調査の結果だけであって、その他の世論調査の結果は、せいぜい、賛成と反対の差が多少広がっている、という程度である。一貫して反対が賛成を上回っているのである。
 私が、政府が国葬の実施を表明した直後から、一貫して強くそれに反対していることは、今更ここで確認するまでもないことだが、旧統一教会問題がクローズアップされるようになったことで、ますます国葬はまずいぞ、という気持ちになってはいる。特に、この宗教団体の改名が認められたいきさつについては、非常に怪しいものを感じる。徹底的に究明した方がいいと思う。
 昨日の政府の発表によれば、国葬にかかる経費の見込みは16.6億円だそうである。多くの人から言われているとおり、実際にはまだ増えるだろう。算出の根拠に関わる部分で、「190以上の海外代表団が参列し、そのうち特に接遇を要する首脳級などの代表団は50程度と見込まれる」ということが語られた。1ヶ月半も前にアナウンスされ、20日後に迫った国葬で、なぜ「程度と見込まれる」といった曖昧な表現になるのだろう?
 そう言えば、その前日、すなわち一昨日、日刊ゲンダイDigitalでは、9月2日に野党が行った国葬に関する合同ヒアリングで、外務省が「現時点でまだ多くの国から返事が届いていない」と答えたことが報じられていた。国葬経費に関する報道を見ながら、はぁ、それは本当なのだな、と思った。日本政府から案内は届いたが、積極的に参加する必要性があるようには思えない、かと言って儀礼上「欠席」というわけにも行かない、さてどうしたものか、という迷いがよく見えるような気がする。
 日本に外交使節(大使)が駐在している国(おそらく156ヶ国)は、わざわざ本国から誰か来なくても、大使が出席すれば義理は果たせる。政府もその辺を基礎数として考えて、190という数をはじき出したのだろう。
 先週土曜日の毎日新聞「時の在りか」欄は、伊藤智永執筆の最終回だったが、そこで取り上げられたのはこの国葬問題だ。見出しは「石橋湛山国葬に反対した」である。見出しを見て、「おお、さすがは石橋湛山だ」と感心しながら読み始めたのだが、面白かったのは、石橋が反対したという山県有朋国葬そのものである。
 記事によれば、1922年に日比谷公園で行われた山県有朋国葬は、1万人収容の仮小屋に数百人しか集まらなかった、議員数人の他は、軍人と官僚ばかりであった、という。たまたまその1ヶ月前に同じ場所で行われた大隈重信国民葬に30万人が集まり、沿道に100万人が並んだ盛況と対比して、東京日日新聞(現毎日新聞)は「大隈侯は国民葬 きのうは〈民〉抜きの〈国葬〉で 中はガランドウの寂しさ」と伝えたらしい。
 これを読んで、そうだよ、反対するよりも、出席しなければいいのだ、と思い至った。それほど分かりやすい意思表示は他にない。もっとも、国葬には誰でも出られるわけではないので、不参加によって意思表示ができるのは、招待された人だけである。残念ながら私は対象外。国会議員は全員招待されるらしい。
 ところが、出席するかどうかということについての国会議員の態度は、甚だ釈然としない。早くに欠席を表明したのは共産党だけで、その後、れいわ新撰組が続いた。維新はもとより、立憲民主党もいまだに態度を決めかねているようだ。葬儀であるにもかかわらず、出席するかどうかを、弔意の有無によってだけでは決められないところが、いかにも「政治」だ。決められない理由を聞いていても、私には理解不能だ。
 しかも、私が不愉快なのは、不参加を決められない政党の中には、不参加にすると「共産党と関係が近い」と思われることを心配している人達がいるらしい。おそろしく非科学的、感情的な頭である。こんな頭で政治をやったら、世の中がよくなるわけがない、と思う。私だって、共産党の体質に問題があることくらいよく分かっているつもりなのだが(→参考記事「日本共産党雑感」)、形式上民主的な選挙制度に支えられた今の社会システムは、共産党のマイナス点が社会に議席数以上の悪影響をもたらさないようにできるのである。まして、共産党と一緒にされたら困るという所から出発し、あえて共産党と違う考え方、違う行動を選択すると言った日には、自分たちの「理念」のなさを暴露するようなものではないか。
 結局のところ、世の中はすっかり曲がっていて、そこに与党も野党もなく、国葬だけの問題でもない、ということなのだな。