宇宙とダークマターと命と神

 有名な話、「文明は人間を堕落させる」は、30年来の私の口癖である。とにかく、便利なもの、楽をさせてくれるものに対しては、敵意にも近い疑いの目を向けている。便利や楽と引き替えに、人間は固有の能力を退化させていく。
 そんな私も、実は、テレビを見ることは多い。テレビだって、登場した頃には、大宅壮一から「一億白痴化運動」だ、などと揶揄された立派な文明の利器である。それが、スマホ中毒ばかり見慣れてしまうと、テレビの害なんて些細なものと思ってしまうから恐ろしい。もっとも、大宅壮一がテレビを批判したのは、「紙芝居以下の白痴番組」ばかりが放映されていた(らしい)からである。テレビによる情報の取得が受動的であるということも問題ではあるにせよ、番組の質が高ければ、彼だってそこまで辛辣な言い方はしなかったのかも知れない。
 NHKは、政権政党への忖度がたびたび問題視されるとは言え、安定した受信料収入があり、なおかつ視聴率をさほど気にしなくてもよい(=視聴者に迎合しなくてよい)という強みは圧倒的であって、たいへん手間のかかった優れた番組を数多く作っている。カメラワークを始め、技術水準も非常に高い。ニュース系の番組だって、では民放は批判精神に満ちた、正確な情報に基づく番組を作っているかと言えば、必ずしもそうとは言えない。大切なのは、NHKか民放かということよりも、放送内容を鵜呑みにせず、批判的に見ているかどうかという視聴者の姿勢である。
 私は、バラエティー番組やドラマを見ることは皆無と言ってよいが、「ブラタモリ」「笑わない数学」「コズミックフロント・オメガ」「ダーウィンが来た!」は欠かさず見ている。これに、気が向いた時には「NHK特集」、「クラシック音楽館」、「日本の芸能」、「サイエンスZERO」あたりが加わる。民放で時々見るのは「情熱大陸」と、息子に付き合って「東大王」くらいだ(我が家には20型のテレビが1台あるだけ)。
 さて、今週の「コズミックフロント・オメガ」は、「暗黒物質ダークマター)」がテーマであった。
 ダークマターとは、既知の物質の5倍以上が宇宙に存在しながら、その正体を捉えることが難しく、現時点ではほとんど理論上、もしくは重力レンズの観測等を通して間接的に存在が認められているだけの物質である。宇宙の動きに大きな影響を与えているため、現在、世界中の天文学者たちが必死になってその観測(把握)に取り組んでいる。本当は、ダークマターの更に2倍以上のダークエネルギーというものが存在していて、これまたダークマター以上に宇宙の動きに大きな影響を及ぼしているはずなのだが、番組では、話が複雑化して分かりにくくならないようにするためか、まったく触れていなかった。
 ダークマターの正体は、素粒子ではないかと言われているが、完全にそう認められたわけではない。今のところ、よく分かっていないのである。
 物質の構造がこれだけ明らかになり、観測機器が発達した今日、それほど大量に宇宙に存在するダークマターを、人間が確認することができないことは考えにくい。科学=人間の知などたかが知れたものだ、科学で解明できないことなど山のように存在する、今の人間が把握できないからと言って、その存在を「考えにくい」と否定するのは傲慢だ、という指摘は甘んじて受ける。だが、天文・物理学に全くど素人の私は、ダークマター(エネルギー含む。以下同)の正体について、ある推測をしている。
 私の推測とは、それらが「命の素」だというものだ。つまり、私たちの、この得体の知れない「命」というものは、実はダークマターが肉体に一時的に宿ったものであって、死ねば、またダークマターに吸収される。宇宙全体の動きを支配し、多くの物を生成消滅させるダークマターの姿は、正に宇宙の命ではないか。そして、このように考えると、命=ダークマターは「神」のことだと言っても、さほど間違いではないように思われてくる。
 平居って意外に科学的じゃないんだな、と人は言うかも知れない。オカルト的だと鼻で笑う人もいるだろう。ならば、ダークマターを捕まえてみればよい。それができれば、宇宙の姿と成り立ちが明らかになるかと言えば、決してそうはならないと思う。結局、更なる謎が見出され、解明には至らないに違いない。私を笑うのもいいが、信じてみるのも一つのやり方だ。(教祖:平居)