「国葬儀」の怪

 数日前の記事に書かれたコメントに気付いている人などほとんどいないだろう。
 9月7日の「国葬に表れたもう一つのゆがみ」という記事について、ある読者の方から、「国葬は葬儀ではありません。」という短いコメントをいただいた。「国葬」の「葬」は「葬儀」の「葬」であろうに、なぜこんなコメントが寄せられたのだろう?と一瞬は思ったのだが、すぐに合点がいった。
 このコメントは、ある意味で正しい。故人をあの世に送り出すための宗教的な儀式である「葬儀」は、家族葬の形で、事件から4日後の7月12日に増上寺で行われた。それを考えると、今回の国葬は、「葬儀」ではなく、故人を偲ぶ者が別れを告げる「告別式」に当たると考えるべきだろう。有名人が死んだ時、時折催される「お別れの会」も性質は同じだ。
 「国葬」という単語に、「葬儀」の「葬」が含まれることと、通常、私たち庶民が参列する機会のあるお葬式では、たいてい葬儀と告別式が抱き合わせになっているので、私はその違いをほとんど意識することなく、記事本文に「葬儀」と書いてしまった。それを、違うのではないか?と指摘してもらったわけである。そこで私は、そのコメントを公開するとともに、次のように回答した。

「コメントありがとうございます。
辞書は、何種類か引いてみても、基本的に「国によって行われる葬儀(あるいは葬式)」と説明しています。安倍元首相については、葬儀は親族だけで死後間もなく行われています。したがって、今回の国葬は葬儀ではなく、告別式とするのが正しいのかも知れません。では、なぜ辞書が国葬を「葬儀」であるとしているのかといえば、おそらく、これまでに行われて来た国葬が、皇族を別にすると、死後ほどなくして正に葬儀として行われているからです。安倍氏国葬は、死後2ヶ月半以上経ってから行われます。今回の異例だらけの国葬は、言葉の意味までも変えてしまいかねないものだということです。
本来の国葬は葬儀です。しかし、安倍氏国葬は告別式です。上の記事で今回の国葬を「葬儀」と書いたのは誤りでした。」

 既に誰かが書いていたことだが、実際、戦前も含めて、過去に行われた国葬を調べてみると、いろいろと特殊な儀式・慣習を伴う皇族のものを別にすると、死から国葬までの日数は、最短で6日(東郷平八郎)、最長で11日(西園寺公望吉田茂)である。山本五十六は48日後に行われているが、士気の低下を防ぐために、死んでから1ヶ月以上その死が公表されていなかったので、死が公表されてからだと15日である。戦時である上、死んだ場所が南洋(ブーゲンビル島)だから、同列に論じることはできない。基本的に、全て正に「葬儀」と「告別式」を兼ねた形で行われたようだ。ともかく、私が安倍氏国葬を、ほとんど何も考えずに「葬儀」だと思い込み、そのように書いたことを恥じた。
 ところが、私はうっかりしていて、それを昨日の毎日新聞日曜版「松尾貴史のちょっと違和感」で知ったのだが、最近、政府はその「国葬」を「国葬儀」と表現しているらしい。へ!?こうなると、どうしても「安倍氏国葬は厳密にいえば葬儀ではなく告別式だ」などという理屈は通用しない。政府が「葬儀だ」と言っているのである。
 マスコミが、「国葬」と「国葬儀」の違いを問い質しても、政府は答えないのだそうだ。松尾氏は、印象操作のつもりではないか、と推測している。「国葬」に反対する国民があまりにも多いので、「国葬儀」と改名することではぐらかしてしまおう、と政府は思っているのではないか、ということのようだ。私は賛成も反対もできない。分からないのだ。ただ、いくら国民がバカでも、それにだまされたりはしないだろう、とは思う。
 ウソは一つつくと、そのウソをごまかすために、更にウソを重ねなければならなくなる。今回の国葬に関するドタバタは、そんなことを思い起こさせる。やってはいけないことは、やはりやってはいけないのだ。