「あなたの判断はいつも正しかった」

 昨日、安倍元首相の「国葬儀」というものが行われた。4200人が出席したらしい。事前に、欠席連絡が相次いだので、政府は追加の招待状を付け焼き刃的に相当数発送したというような報道がなされていたが、それをもってしても、なお当初の予定より参列者が1800人も少なかったということなのだろう。
 私が、昨日のうちにこの件に触れなかったのは、決して呑み歩いていたからではない。どうでもよかったからである。しかも、職場では、昨日が国葬儀の日であることについて、気配としても感じることができないほど話題にならなかった。自民党も、本当は弔意の強制(少なくとも、呼びかけ)をしたかったのだろうが、逆風吹き荒れる中、それをすれば今以上に反発が強まると感じて、あえて何もしなかったに違いない。うっとうしいので、テレビのニュースも見なかった。
 今日の新聞で、実況中継風の事実報道部分は、読めば読むほど白けた気分になった。首相の「追悼の辞」を真に受ければ、安倍氏はただただ立派な人物であり、問題など何もなかったかのように聞こえる。故人を決して悪くいわないのはお葬式(告別式)の常識であるにしても、故人が有力政治家だっただけに、「ご挨拶」によって冷静な評価を阻害することはとても危険だ。それこそが国葬儀の問題である。前首相に至っては、「あなたの判断はいつも正しかった」と涙ながらに語ったらしい。「正しい」というのはこれほどまで人によって違うものかと、戦慄を覚えないわけにはいかなかった。いずれ、仲間内での慰め合い、励まし合いのようなものであり、国家イベントではなかった。17億円は一部の人々の個人的な満足のための無駄金である。
 多くの新聞報道の中では、朝日新聞「多事奏論」欄が、ユーモラスかつ的確な表現も含めて面白かった。編集委員高橋純子氏によるもので、見出しは「国葬と岸田首相 実にこわい 剣が峰で気概なし」である。
 高橋氏が最後の部分で述べていることは、最近私も思っていたが、ここにはまだ書いていないことであった。せっかくなので引用しておく。

「社会の分断をもたらす国葬を実施した首相の罪は重い。だからこそ、あえてひとつ提案したい。自ら先頭に立って安倍氏を盛大に悼んだことを奇貨として、『安倍政治』との決別を宣言し、国葬を新たな出発の機会と位置づけてしまってはいかがか。いまとなっては唯一の、意味のある国葬の『使い道』であり、首相にとって、日本政治にとっても起死回生のラストチャンスかも知れない。勝負に出る価値は十分あると考えるが、どうだろう?・・・」

 もっとも、安倍政治に決別するためには、その後のビジョンというものが必要で、それを持っているようには見えないから、実行はできないのだろう。こんなことをして内閣支持率がV字回復したとして、決してろくなことは起こらないだろう。だとすれば、今のままでしょぼしょぼやってくれるのがいいようにも思う。
 私は菅政権崩壊後、読売新聞の報道姿勢が変わったとして評価していた。特に教育現場へのデジタル導入とか、コロナ対策の弊害についての指摘・主張にはたいへん見るべきものがあった(参考記事→デジタルについて、→コロナ対策について)。そういう個別、具体的な問題についてだけでなく、政治に対するスタンスも違和感を感じることはほとんどなくなっていた。
 ところが、今日の読売新聞を読んでいると、論調は安倍時代に逆戻りである。「社説」を読むと一目瞭然。ここにいちいち文句は書いていられないが、野党や国葬に反対する人々に対する読売の意見は、いずれも偏ったものであり、その偏向点を容易に指摘できるものである。安倍晋三おそるべし。彼の名前が出るところ、必ず溝が生まれる、といった感じだ。本人亡き後、人々が勝手にやっていることであって、安倍晋三その人に罪はない・・・とは言えない。やはり安倍氏のやったこと、政治手法が、そのように人と人とを分断するような構造をしていたのだと思う。