国力の低下

 円安が止まらない。毎日1円くらいずつ値を下げる。アメリカとの金利の差が主要因とされていたが、ドルに対する価値の低下が、他のどの国の通貨と比べても際立っているらしく、原因は金利だけではない、国力そのものの低下なのだ、ということをほとんど毎日、新聞記事で目にするようになった。
 今日の河北新報にも、「円凋落、国力低下を反映」「東日本大震災後 価値半分」「緩和頼み 投資呼び込めず」という見出しの4分の1面に及ぶ記事が出た。円が他の国の通貨と比べていかにドルに対する価値を下げているか、今年上半期の貿易赤字が11兆円に及ぶことなどをもとに、円、株、債権のトリプル安が起きることを危惧したものだ。もっとも、こんな記事を待つまでもなく、ネットの世界も含めて、いろいろな人が原因分析や予想をしている。それらのほとんどは悲観的なものだ。
 国力とは何か、国力が通貨価値にどのようなプロセスで影響するのか、といったことについて私は無知なのだが、何しろ通貨価値が上がるか下がるかという問題である。「国力」なるものが無縁であるわけはない。
 この場合の国力とは、基本的に稼ぐ力だろう。日本の工業製品が、他国産に比べて優位でないとは、最近よく言われる。30~40年前に強かった白物家電がぱっとしない。石油と食糧の多くを海外依存していることは、常に日本のアキレス腱だ。加えて、世界的な半導体不足等によって、生産そのものがままならない。学術も振るわない。大学世界ランキングで、200位以内に入ったのが東大と京大だけ。しかも、それぞれ順位を落とした。論文の引用数でも何でも、最近景気のいい話を聞いたことがない。それらが、新商品開発や生産の質・量に直結する。
 なんで日本はこうなってしまったのだ?などとは思わない。さもありなん、と思うばかりである。原因についての心当たりはいくらでもある。むしろ、今に至るまで問題が深刻化しなかったのが不思議なくらいだ。
 学術についてよく言われるのは、短いスパンで成果を出すことばかりが求められる、ということである。知的好奇心や探究心に基づかず、「役に立つ」ことが見えている研究にばかり予算が付き、学問の裾野が広がらない。
 私が高校という場にいて思うのは、親、更には大人全体の問題だ。毎朝、校門には送迎の車列ができる。立派な車で親が子供を送って来る。少し雨が降ったら、風が吹いたら、寒ければ、暑ければ、送迎の車が増えて車列が延びる。親は子供が幼ない時から、ゲーム機を与え、スマホを与える。子供が喜ぶことをすることが、子供のためになることだと誤解しているようだ。学校は「配慮」のオンパレード。生徒の様々な事情に、いちいち配慮する。いや「迎合」と言った方が正しいと感じる場面が多い。じっくり考えることは生徒が嫌がるし、それを試験で問うて点数が取れないと教員が困るのでさせない。生徒がサボって成績が悪ければ必ず追指導。点数が低いとクレームが付くが、高い分には文句を言われないので、成績はインフレとなる傾向にある。などなど・・・つまりは、大人が子供をひ弱にし、苦労して価値あるものを身に付けるよりは、手っ取り早く快適で楽しい思いができるように仕向ける。
 こうして育てられれば、上手くいかないのは他の人の責任、何とかして下さいよ、ということになるだろう。会社に入って上司からちょっと厳しく何かを言われた時には、「パワハラだ!」と大騒ぎすることにもなるだろう。こんなことをしていて、生産活動だけは上手くいく、などということがあるわけがない。
 とにかく、何もかもが近視眼的で、目先の利益を確保し、目先のトラブルを避けることだけが価値観になっているようだ。理念(普遍的な価値)など考えられてすらいない。国力の低下は、その集大成とも言うべき現象である。
 外国がどうであるかは知らない。だが、外面的で見えやすい学術政策など見ていると、日本よりはよほど賢い国が多い。おそらく、家庭や学校もある程度は連動しているのではないか?
 近視眼的な行動の積み重ねによって今の事態があるのに、おそらく、人はそのことに気付かず、近視眼的な行動で現状を打開しようとするに違いない(何でもかんでも補助金、というのはその例)。もちろん、それは更に深刻な事態を招く。どこまで行けば気が付くのだろうか?