新習近平体制について

 第20回中国共産党大会が終わった。周知のとおり、習近平がほぼ独裁体制を確立させた。総書記が最も強い力を持つのは当然だが、その最も近くにいて、大きな権限を持つのが政治局常務委員会の6人である。習近平は、それを完全にイエスマンで固めたという。しかも、次世代をどう育てるかという観点がまったく欠落した、終身体制を視野に入れた新体制である。マスコミは、その危険性と不安とをこぞって書き立てている。中国近現代史研究者の端くれである私もまったく同感だ。
 よくぞこれだけ堂々と、エゴをむき出しにして権力掌握を実現させられたものだと感心する。習近平1人がいくら策を弄したにせよ、彼1人の力で実現することではないはずだ。どんな人がどのように立ち回れば、こんな集権体制が実現するのか。そのプロセスに関し、私にはまったく想像が及ばない。
 昨日の河北新報(ただし共同通信記事)によれば、今回の党大会にしても、元々は、党内バランス重視の人事を内定していたが、直前になって人事案(名簿)を差し替えたらしい。歴代トップにすら名簿を事実上隠す「だまし討ち」を行ったのだ、という。そのプロセスについても多少は触れられているが、やはり、なぜそんなことができるのか、実感としては分からない。おそらく、多くの人が自分個人の損得勘定をしながら、利益を求めて動いた結果なのだろう。理念などどうでもいいのだ。
 習近平と新しい政治局常務委員の写真が、あちこちに出ているが、私だったら「習近平に厚い忠誠心を持つ側近」としてなんか、恥ずかしくて、顔をさらしたくはないな。ただの「飼い犬」ではないか。
 今次大会に至るまで、かろうじて維持されてきた(のかな?)集団指導体制は、これまたマスコミがこぞって言っているとおり、毛沢東による独裁が、反右派闘争から大躍進運動、そして文化大革命へという負の歴史を生み出したことの反省によっている(→参考記事「権力の性質(毛沢東の場合)」7回連載)。独裁政権は、暴走を始めた時に誰も止められない。その恐ろしさを、わずか40~50年前の中国人は、骨身に染みて思い知った。当時を知る人は、まだまだ生きている。それでも、その反省というか、苦しみの実感が力を持たない。一方では、歴史認識問題で、日本が80年前の侵略行為を反省していないと批判するのに・・・である。かたはらいたし。
 14億人の頂点に立てる人物である。いくら図々しくて恥を知らないから偉くなれたとは言っても、それだけのわけがない。非常に頭の回転の速い人なのだろう。それでも、自らの野望の前に、そんな歴史を振り返り、国民の幸せとは何かを考えながら身を処するということができない。権力というものは、それほどまでに魅力的なものなのか?持ったことのない私には、よく分からない。私だったら、そんな高い地位に就き、強大な力を持ったら、駅前の焼き鳥屋でビール飲んだりできなくなるから嫌だな、と思うのだけれど。
 大躍進運動(1958~60年。)が進められた原因の一つに、正確な情報が毛沢東に伝わらなくなったことが指摘されている。人は誰でもほめられることが大好き。一方で、自分に対する批判はあまり聞きたくない。自分が指示したことが、いい結果を出しているのも嬉しいものだ。もちろん、逆は不愉快。すると、忠誠心厚い側近たちは、毛沢東が喜ぶ情報だけしか届けなくなる。自分にとって都合のいい情報しか得られなくなれば、どんなに優秀な人間でも、正しい判断は下せなくなる。これこそが恐ろしいことである。
 今回発足した習近平体制で、習近平が自分のまわりをイエスマンで固めたことの本当の危うさもそこにある。果たして、習近平の元に正しい(客観的な)情報は届けられるのであろうか?もう一度言うが、正しい情報なくして正しい判断はあり得ない。たとえ側近で取り囲むにしても、習近平にどうやって正しく情報を伝える方法を確保するのか?それが重要な問題になるだろう。