山本周五郎と『樅の木は残った』

(今日は文化祭の代休。昨日の続き。)

 「樅の木」の足下に、山本周五郎の文学碑がある。字は夫人の手によるものらしい。

「雪はしだいに激しくなり、樅の木の枝が白くなった。空に向かって伸びているその枝々は、いま雪を衣て凜と力づよく、昏れかかる光の中に独り、静かに、しんと立っていた。『--おじさま』 宇乃はおもいをこめて呼びかけた。すると、樅の木がぼうとにじんで、そこに甲斐の姿が、あらわれた。」

 「樅の木」との関係を考えれば、ここしか引用できない、といった場面ではあるが、それでも最良の引用である。これを読むと「万感胸に迫る」としか言いようがない思いにとらわれる。しかし、それは原作を読んだことがあれば、の話である。原作を読んで、宇乃が何者か、これがどのような場面かが思い浮かばない人には、おそらくほとんど意味不明な一節だろう。
 臨済宗の僧侶であった私の父方の祖父は、山本周五郎のファンであった。私が山本の作品を手に取ったきっかけは、その祖父である。三重県に住んでいた祖父と会う機会など滅多になかったのだが、その数少ない「機会」(おそらく高校時代だったと思う)に、祖父の部屋に置いてあった本を前に、ほんの少し、「山本周五郎はいいね」くらいのことを聞かされたのだったと思う。我が家の書架には、20冊くらいの文庫本が並んでいるから、「熱中した」とまではいかないまでも、好きになってそれなりに読んだ、ということである。人情を描くにも、人柄を感じさせるにも、そして女性のなまめかしさを描くにも長けた、優れた作家だと思う。
 『樅の木は残った』は、一般にも山本の代表作とされることが多いと思うが、私も、「決定版」と言ってよいほど優れた作品だと思う。他の山本作品と比較する必要すらない。絶対的な秀作だ。字の小さな昔の文庫本で2冊、1100ページを超える長編小説だが、少なくとも3回は読んだ。ごく簡単に言えば、「渋い」。これ以外の表現は見当たらない。山本は、伊達騒動の発端となった上意討ちが起こった後、自分が汚名を引き受けることで主家を救う決意をした原田甲斐が、着々と準備を進めるさまを描く。単なる歴史的経緯の説明ではない。一つ一つの場面から、山本の想像する原田甲斐の人柄が滲み出てくる。その描き方がとても上手で、人柄も魅力的だ。随所に、伊達騒動を引き起こした張本人の一人、伊達兵部とその手下(スパイ)新妻隼人との会話が、「断章」としてたびたび挿入される。あえて主語を書かないことが、まるで襖越しに会話を盗み聞きするかのような印象を読者に与える。「陰謀」の凄みが感じられて効果的だ。
 まだ20代の息子3人まで切腹という凄惨な処置に象徴される「お家断絶」。もちろん、原田甲斐はそのことまで覚悟した上で、事を進めていたであろう。私は、人が上位者に理屈抜きで絶対服従することを意味する「忠誠」などという徳は大嫌いだが、他者のために、徹底して自分を犠牲にするという無私の精神の純粋さ、激しさには打たれる。文学碑に刻まれた上の一節を前にすると、そんな『樅の木は残った』が身に迫って思い出されてくる。
 さて、「樅の木」を後にすると、頂上を目指す。10分ほどで着く。天気がよくて気温も上がってきたので、そこそこ汗をかいた。頂上には、船岡出身、東京在住の資産家が1975年に建てたという高さ24mの白い観音様が立っている。船岡平和観音と言う。表面が塗り直されたばかりらしく、不自然なほどに真っ白だ。眺望もそこそこ得られるが、あの「樅の木は残った展望台」に比べればどれほどでもない。
 意外にも、大河原町側へ下りる道は見つからない。頂上のすぐ下にある売店で、開店準備をしていたおばさんに尋ねてみると、「分からない」と言う。登山靴を履いていれば、藪漕ぎによる強行突破もできただろうが、革靴ではそうもいかない。道を探し回って遅刻するわけにもいかないので、「樅の木」に戻って西側に下山し、県道50号線を歩いて目的地に向かう安全策を取ることにした。大河原町側からも道を付ければ、船岡城址柴田町(船岡)と大河原町の共通の観光資源になるのにもったいない。
 大河原商業高校には、集合時刻の15分前に着いた。