この作品はなぜ「古典」になれたのか?

 国語の秋季大会に関する様々な話は抜きにして、古典分科会で私が話したことの中心部分だけを書いておくことにする。(微修正あり。文章体で。)

 

 私にとっては当たり前のことが、人にとっては当たり前でないと感じることがよくある。学校でカリキュラムについての議論が行われる時、古典については入試に出るか出ないかという観点での議論になりがちだ。そんな時に、私は「私にとって当たり前のことが、人にとっては当たり前ではないかも知れない」という違和感を抱く。
 そもそも古典とは何だろうか?「古典」という中国語の熟語で、まず大切なのは「典」の方だ。これは(ホワイトボードに絵を描きながら)机の上に糸で結ばれた竹簡が整理された状態で置かれている絵を元に作られた漢字である。大切なのは、竹簡すなわち現在で言うところの書物が、床の上に乱雑に放置されているのではない、ということだ。これは、机の上に置かれているのが、大切に扱うべき優れた内容の本であることを表している。
 では、それになぜ「古」という漢字が加えられたのか。それは、この世に「いいものしか古くなれない」という自然法則が存在するからだ。家の掃除をしている時のことを考えてみると、そのことは容易に理解できるだろう。掃除をすれば、何かを捨てて何かを残すことになる。残す物は、おそらく思い出がたくさん詰まった物といい物で、捨てる物は思い入れのない安物だ。思い出は自分だけのものなので、思い出がたくさん詰まった物は、自分が死んだら捨てられてしまう。それでいい。しかし、本当にいい物は、世代を超えて受け継がれていく。だから、いい物しか古くなれないと言えるのだし、逆に言えば、意識的に残されてきた古い物は、全ていい物だとも言える。そうして生き残った敬意を持って扱うべき作品だけを「古典」と呼ぶ。
 このことは、ヨーロッパ語でも似たり寄ったりだ。例えば、「古典」に相当する英単語は「classics」である。その語源を調べてみると、ラテン語の「classis」という言葉にたどり着く。英語の「class」と同じく、集団、グループを意味する。ラテン語は名詞にも比較級や最上級があって、「classis」は最上級にすると「classicus」となり、それが英語の「classics」となった。「最高級の物のグループ」という意味だ。「古い」という意味はない。しかし、ヨーロッパ人にとって「最高級の作品群」というのが、古代ギリシャ、ローマ時代の芸術や文学であったために、古いというニュアンスを帯びるようになった。
 いずれにしても、まず原点にあるのは、「古典」は「古い作品」ではなく、「優れた作品」だという認識である。実際、中国人や欧米人が「古典」や「classics」という言葉を使う時は、「優れた作品」であることを意識していると感じる。一方、日本人は、高校の国語教師と言えども、古典とは何かということについて共通理解を持っているようには感じられない。「古典」本来の意味は大切にすべきである。
 そのことからすれば、例えば、現代文の作品を読んでつまらない=価値がないと感じる時は、作品が悪い可能性がある。悪いのが作品なのか、その作品の価値を読み取れない自分なのかは分からない。しかし、古典はそうではない。何しろ多くの人の批判に耐えて生き残ってきた作品である。つまらないと感じるとすれば、悪いのは作品ではなく、その作品の価値を読み取れない自分であることがはっきりしている。ということは、古典の価値が分からない場合、それが理解できるようになるまで努力すべきだ、ということになる。自分の未熟を教えてくれる、それは古典の大切な機能である。
 従って、古典を学ぶ時、常に意識しているべきは「この作品はなぜ古典になることができたのか?」ということだ。この問題意識を、私は授業で繰り返し繰り返し生徒にすり込んでいる。生徒は「いいものしか古くなれない」には容易に納得するし、すると「この作品はなぜ古典になることができたのか?」という問題の大切さも理解する。それをすり込むことはさほど難しいことではない。しかも、この考え方が通用するのは、文学作品に対してだけではない。だから、授業時間に余裕があって、少し寄り道をしてもいいと思った時に、私はクラッシック音楽や日本の古典芸能のビデオを見せるということがあるのだが、どんな分野の古い作品についても、授業の冒頭で「古典とは何か」を少し振り返り確認すれば、生徒はそれなりに真剣に向き合おうとするものである。
 私は、現代文でも古典でも、最後に必ずまとめの作文を書かせる。授業では細部にばかり目が行きがちなので、作品に作品として向き合うためには、最後の作文がどうしても必要だ。ただの感想文で十分なのだが、古典の場合、「この作品はなぜ古典になれたのか?」というテーマに必ず答えるよう指示する。
(『伊勢物語』第9段「東下り」の授業に関する別紙プリント=生徒作文の抜粋あり、を参照してもらう。その授業について、多少の説明はしたのだが、本ブログでは省略。)
 生徒の作文には、具体性のない、曖昧なものが非常に多い。だが、私が担当している75人の頭を寄せ集めると、それなりの指摘が出そろう。やはり、古典を読む場合、「なぜその作品は古典になれたのか」という問題は、常に意識しているべき大切な問題だと思う。