ウソつきは泥棒の始まり

 29兆円を超える政府の物価高騰対策案はいよいよ国会審議となる。案が出た先月の末、新聞各紙の社説は、こぞって財政規律をどうするのだ、と批判していた。まったく同感だ。借金ばかりでお金のない日本が、特に燃料価格なんて下がる要素が何もないのに、見境のない補助をしてどうするつもりなのか?
 というようなことは、今まで何度となく書いてきた。全ては「近視眼的な行動」のなせる技である。と同時に、「人間は見たいと思う現実しか見ない」(カエサル)ことの表れでもある。つまり、現実的にはどう考えても何ともならないのに、何とかなる可能性だけを見ようとする。
 かつて、日本にも借金のない時代はあった。私が生まれた頃、1965年に赤字国債の発行は始まったが、極めて抑制された、いわば理性的な発行で、それが1990年にはゼロになった。ところが、その直後にバブルが崩壊し、1994年に改めて赤字国債を発行するや、一気に心のたがが外れ、右肩上がり、ほとんど2次曲線のように加速度的に増えるようになった。今の政府、いや、野党も含めたほとんどの政治家には、借金をするのはまずい、今の借金は既に天文学的数字だ、などという意識があるようには見えない。
 そもそも、なぜ赤字国債の発行が始まったかと言えば、国の運営をしていくのにお金が足りないから、というのは少し違う。本来、持っているお金の範囲で、できることだけすればいいからである。公務員の給料を払うなどの維持的経費さえ出せないほど、国家財政が逼迫していたわけではなかったはずだ。おそらく、今の「積極財政」の考え方が当時もあったからだ。借金をしてでも経済をてこ入れすれば、やがて好景気がやって来て、借金くらい返せるさ、という発想である。
 ところが、思った通りの好景気はやって来なかった。目論見は外れ、借金だけが残った。借金を返すのに借金をするという悪のスパイラルの始まりである。しかも、単に借金が重荷になっただけではない。景気を上向かせるためにお金を投入し、景気が上向かないままに、もっとお金を使えば次は変化する・・・という際限のない「期待財政」になってしまったのだ。「人間は見たいと思う現実しか見ない」という性質に支えられて、借金を返していくためには、好景気になってくれないと困るという強い願望が、願望と現実の見極めを出来なくさせていく。私は政府の借金をそんな風に理解している。
 私は、こんな財政規律の緩みを見ていると、ウソは一つつくと、そのウソをごまかすために、たくさんのウソを重ねなければならなくなる、という、ことわざとも人生訓ともつかぬものを思い出す。お金は、自分が持っている量に合わせて使うのが本当だとすれば、借金をするのはウソをつくのと同じことである。借金を返すために借金をするのも、日銀が際限なく政府に金を貸す(国債の買い支えをする)のもウソである。その上、大量の借金を抱えていながら、それがさも問題ないかのように振る舞う。これもウソであろう。他国に比べて金利が低いから円安が進み、借金が多すぎて金利が上げられないから、円買いの為替介入を行う。これもまたウソのうちだ。ウソがたくさん塗り重ねられ、それが様々な矛盾を露呈するようになると、政治家は失政隠しのために、更にウソをつくだろう。
 「ウソつきは泥棒の始まり」と言う。ただの(?)「ウソつき」も、やがては立派な(?)「泥棒」となる。財政規律の緩みによる「ウソつき」が「泥棒」になるとは、国がどうなることなのかは分からないが、いずれろくでもないことであるのは確かだ。国会での審議を経て、補正予算が成立するということは、結果について全国民が責任を負うということだ。果たして、何が議論されるのやら・・・。