母のコロナと年賀状

 以前からたびたび登場するのだが、仙台市の近郊に老母が住んでいる。夏以来、私の妹が面倒を見ている。一人ではほとんど動けない状態なので、妹が留守にする必要がある時で、ショートステイの予約が取れない時などに、私が呼ばれる。今週末は私が介護の予定であった。
 ところが、一昨日、老母の様子が変だという電話がかかってきた。今まで以上に何もできなくなり、自分で自分の体が支えられないので、椅子に座らせることも難しいという。そして昨日、あと20分ほどで家を出て、電車で母の所に向かおうと思っていた時に、また電話がかかってきた。いよいよおかしいので、医者に診せる必要がある、自分も予定をキャンセルした、車で来て欲しい、とのことだった。特に他の症状があるようではないので、私は急激な老衰症状なのではないか、と思った。
 私としては珍しく、高速道路を使って1時間10分後に実家に駆けつけた。部屋に入るなり、看護師の資格を持つ妹が、不織布のマスクを2重に付けろ、と言う。電話を切った後で熱を計ったら37.5℃あるらしい。苦労して、2人がかりで車に乗せ、寒い中、窓を開けて行きつけの病院に向かった。
 その後の顛末は端折るが、結局、母はコロナ陽性との判定を受け、濃厚接触者の妹と共に実家に軟禁となり、私は一緒にいない方がいいと追い返された。母は何しろ85歳なので、危険といえば危険であるが、その危険は仕方のない危険であり、妹にも私にもさほど危機感はない。インフルエンザだろうが、ただの風邪だろうが、85歳の老人にとっては同じように危険だ、というだけである。
 というわけで、母の介護のための2日間のうち、1日半が自分の時間になった。家の前の斜面の笹刈りに半日を費やした後、ひたすら年賀状の準備に取り組んだ。
 毎年、年賀状止めようかなぁ、と思う。「今年で年賀状止めます」という年賀状も、毎年2~3通来る。
 「年賀状博物館」というサイト(施設は存在しない)によれば、日本における年賀状の歴史は7世紀後半までさかのぼれるらしいが、そもそも、人々の生活圏が狭くて遠隔地に知り合いがいなかった上、明治に入って近代的な郵便制度が整備されるまでは、遠隔地に書状を送るというのは極めて特殊なことだから、今のような庶民の風習となったのは、明治の半ばになってからである。そして、一定期間に出せば元旦に配達するという年賀郵便の特別扱いが1899年(明治32年)に始まり、戦後1949年(昭和24年)になってから現在のようなお年玉付き「年賀はがき」の発行が始まった。私は、バレンタイン・デーと同じく商業主義的な発想で、郵便局が増収増益のために、いかにも「年賀状を出すのは日本の良き伝統ですよ」みたいなことを言って、国民を煽っているのかと思ったが、案外そうではないらしい。
 強固なアナログ主義者の私でも、最近は、メールに頼ることが多く、紙のお手紙はせいぜい月に2~3通しか出さない。それでも、お手紙という奥ゆかしく味わいある通信手段は守りたいと思う。つながりの全てがデジタルになってしまうのは嫌だ。紙のはがきの方が、どう考えても、PCの画面に現れるメールよりも相手の人柄・個性というものを感じる。正月のポストに年賀状の束が入っているのは嬉しい。また、日頃連絡を取り合うこともない人と、年に一度、消息を確認し合うことは、決して悪いことではないような気がする。東日本大震災の時、年賀状だけで結びついていた人が、意外な形で手を差し伸べてくれた時は、いくら細々とでも関係を繋いでおくことの大切さを痛感した。
 しかし、既に何度か書いているとおり、最近は住所を知らない人も増えている。年賀状を出せば、「返信が面倒くさい」とか「年賀状とはまた仰々しい」などと、迷惑に思ったりいぶかしく思ったり(「引く」というやつ)する人もいるかも知れない。できれば平居との縁なんて切れた方がいいのだ、と思っている人もいるだろう。そんなことをあれこれ考えながら、結局、今年も年賀状を書く。
 そんな私も、文面、宛名面共にPCでプリントアウトするのだが、絶対に譲れない一線として、手書きの文字を書き添える。昨年もらった年賀状を見ながら、その人に思いを馳せながら書くと、1枚に2分前後かかる。150枚書くのは大変だ。それでも、労力と価値は比例するのだから仕方がない。老母は心配だが、そんな時間が取れたのはありがたかった。