歩いて山響

 昨日は「マルホンまきあーとテラス」(石巻市の総合文化施設)に、山形交響楽団の演奏を聴きに行った。もちろん歩いて、である(前回は「歩いて読響」→こちら)。コロナによって芸術・文化が大きなダメージを受けたことを手当てする補助金(旅行支援と同じ発想)が文化庁から出るため、チケット代がひどく安い。しかも、交通費ゼロである。
 「ニュー・イヤー・コンサート」と銘打ってあって、前半はヨハン・シュトラウス2世のワルツ、ポルカが4曲(「春の声」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」「花祭り」「美しく青きドナウ」)とヴォーン・ウィリアムスのテューバ協奏曲(独奏は宮城県で高校を出た山響奏者・久保和憲)、そして後半はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(独奏は牛田智大)。指揮は斎藤友香理。
 斎藤友香理は、奇しくも、15日のEテレ「クラシック音楽館」に登場し、日本人が作曲したピアノ独奏付き作品を3曲、東京フィルと一緒に演奏していたのを見た。人並みに現代音楽が苦手な私は、曲自体の価値が理解できず、指揮者がいいとか悪いとかもよく分からなかった。ただ、それをきっかけに調べてみれば、とても才能のある評判のいい人らしい。
 ヨハン・シュトラウスは、多少早めでとても淡泊。非常に有名な話、ウィンナ・ワルツの3拍子というのは、三つの拍が均一の間隔で演奏されるのではなく、1拍目と2拍目の間に比べると、2拍目と3拍目の間隔が多少長めに演奏される。私のようなド素人が聴いてもはっきり分かるレベルである。ところが、昨晩の演奏は、それが均一だった。なぜそうしたのかは分からない。日本人がウィーン風に演奏しようとして、わざとらしくなることを避けたのだろうか、と少し想像した。ただ、そのように演奏すると、あのウィンナ・ワルツがとてもつまらなく聞こえることがよく分かり、その発見がかえって面白かった。
 ヴォーン・ウィリアムスのテューバ協奏曲(1954年作曲)というのは、歴史が浅い楽器であるテューバ(とは言っても19世紀の半ばには完成していたはず)のために書かれた史上初の協奏曲である。とても有名な曲らしいが、私は聴いた記憶がなかった。事前に我が家のCDラックを探してみると、アンドレ・プレヴィンロンドン交響楽団によるヴォーン・ウィリアムスの交響曲全集の余白(?)に録音が見つかった。聴いてびっくり。第1楽章は日本の伝統的旋律をモチーフにしたのか、と思うような曲想で、何も知らずに聴いたら、日本人作曲家の作品だと思っただろう。五音音階(ファとラがない)である。五音音階は日本でなくても、民族音楽の中にはよく見られるものだが、この曲は日本的に感じられた。わずか10分あまりの小さな曲で、簡潔ながらも変化に富んだ佳曲である。これは面白いな、と楽しみに聴きに行ったのだが、残念ながら、テューバの音というのは低音で輪郭がはっきりしない上、真上に吹き上げられる。珍しく、1階席の真ん中より前に座っていた私には、テューバの演奏するメロディーが非常に聴き取りにくかった。
 牛田智大の演奏を聴くのは3回目。牛田のピアノよりも、どちらかというと、私はベートーヴェンのアイデアの豊かさに改めて感心しながら聴いていた。
 第1楽章のカデンツ(オーケストラが止まってピアノだけになる部分。本来は独奏者自身が即興的に演奏する)が始まった瞬間、あれっ?と思った。知らないカデンツである。この曲は、ベートーヴェン自身が2種類のカデンツを作曲しているので、普通はそれら(たいていは長い方)が演奏される。ベートーヴェン以外の人が作ったカデンツが演奏されるのを、私は聴いたことがない(ただし、記憶は極めて曖昧)。終演後、山響関係者らしい誰かをつかまえて尋ねてみようかと思っていたら、色々な知り合いに声をかけられ、挨拶したり立ち話したりしているうちに忘れてしまった。帰宅後、ネットで調べてみると、牛田はかつてクララ・シューマン作曲のカデンツを演奏している。今回もおそらくそれなのだろう。知らないカデンツが演奏されるというのは、変化があって面白いのだが、やはり曲としてはベートーヴェンの「勝ち」のような気がする。特に、カデンツが終わってオーケストラが戻ってくる部分の接続には違和感があった。もしかすると「慣れ」の問題かも知れない。アンコールにはロベルト・シューマンピアノソナタ第1番の第2楽章が演奏された。カデンツとの関係があるのかどうか・・・。
 牛田のピアノについては論評しない。大切なのは、もっと楽しそうに(もしくは音楽の喜びを感じていることが分かるように)演奏してくれないかなぁ、ということだ。なんだか、最初から最後まで疲れたような、更に悪く言えば、面倒くさそうなのだ。アンコールの至って地味な選曲も、そんな表情と妙に調和していた。ま、私としては、やっぱりベートーヴェンは偉大だ、と思えただけでよかったのだけれど・・・。