公私取り混ぜ、昼も夜も多忙を極めていて、こんな所に文章を書いているどころではなかった。
その多忙も一段落した週末、まずは仙台フィルの361回定期演奏会に行った。今年度、私がメインイベントに位置づけていたものである。曲目も演奏者も完璧。来年度首席指揮者に就任予定の高関健の指揮で、ベートーヴェンの「皇帝」(独奏:小山実稚恵)、ショスタコーヴィチの交響曲第10番であった。
ベートーヴェンは、最高の名曲を絶対に信頼できる演奏者によって聴く気持ちよさ。小山実稚恵の演奏に接するのは何度目か知らない。こんなに強烈なタッチで弾く人だっけかな、とは思ったが、そのうち、あまりの気持ちよさにうとうととしてしまった。アンコールは「エリーゼのために」。こんな平易な曲を弾くのは、逆に怖いだろうな、と思った。
ショスタコーヴィチについては、かつて何度も書いている。簡単に言えば「大好きで大嫌い」もしくは「大嫌いで大好き」という言葉が、その音楽を聴く時の私の気持ちをとてもよく言い表している(→こちら)。スターリンによる粛清に常におびえながら、権力による批判と自分が表現したいことを表現することとの間に立って苦しみながら作曲した。その鬱屈した心理が私には共感できるし、だからこそ、聴いていて苦しくなるから「嫌い」なのだが、私の心情をよく代弁してくれているから「大好き」でもあるのである。
「平居はそんなに権力によって抑圧されていないだろう」と人は言うかも知れない。確かに、私はショスタコーヴィチと違って、今日明日にも殺されるかも知れない、というほどの切羽詰まった状況にはない。だが、自分一人の力によって生きていくことはできず、周囲の状況によって自分の人生の質は大きな影響を受ける、と自覚していることが、ショスタコーヴィチの置かれた状況と大同小異なのである。もちろん、本当は私だけの問題ではない。全ての人に同様の状況があるはずだ。みんな気にしていないだけである。
上にリンクを張った記事で、私はショスタコーヴィチの曲の中では、交響曲第8番を最も高く評価している旨書いた。しかし、第10番も双璧だ。同じ短調であることから始まって、曲の構造というか曲想というか、よく似ている。以前は第8番の方に軍配を挙げていたのだが、今回、聴いてみると、本当にどっちもどっち。
スターリンの死が、1953年3月5日。この曲の完成はその年の秋。言うまでもなく、スターリンの死後、最初に書かれた交響曲だ。しかし、スターリンから解放された喜びなどおくびにも出さない。「社会主義リアリズム」という要請がある以上、最後は華やかに明るく終わるが、それが本当に明るい音楽と言えるのか?私には、引きつった笑いの音楽に聞こえる。おそらく、ショスタコーヴィチは、警戒することがその身に染みついていて、スターリンが死んだからと言って、羽を伸ばすわけにはいかなかったのだろう。ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』(中公文庫BIBLIO20世紀)によれば、第2楽章(「第2部のスケルツォ」と書かれているが、この曲の楽譜に多分「スケルツォ」は存在しない。第2楽章のことだろう)はスターリンの肖像だと言う。偽書であることが明らかになっていながら、内容的には「真」と思われるこの本の中で、最も「真」と思えない箇所だ。この楽章がスターリンの肖像なら、スターリンは人を狂気に追い込む存在だ。そんな本当のことを、ショスタコーヴィチが書くはずがない。
プレトークで高関氏が「ロシアがウクライナに侵攻している今、ロシアの音楽を取り上げることに反感を持つ人もいるかも知れないが、私はこの曲を本当に名曲だと思うので演奏する」と言っていた。そもそも、ショスタコーヴィチ自身が、表向きは強い愛国心を示していながら、腹の中ではおそらく自由と平和とを渇望し、それがないことの苦しさを遠回しに表現していた作曲家だ。彼が今の世に生きていたら、プーチンはスターリンほど彼を恐怖させはしないだろうが、それでも、表だって反戦の意思を示すことなく、やはり同様の感情を音楽に託したような気がする。
チャイコフスキーであれリムスキー・コルサコフであれ、その音楽を演奏することが今のロシアを肯定することになどなるわけはない。プーチン政権やウクライナへの軍事侵攻を賛美して書かれた音楽でなければ、私は何の抵抗も抱かない。まして、ショスタコーヴィチにおいては何をかいわんや、である。
また、ショスタコーヴィチほど録音で聴くことに適さない、ライブ向けの作曲家というのもいない。編成が巨大で、多くの楽器による声部が極めて複雑・緻密に組み合わされている。しかも、低音の弱音で演奏される箇所、すなわちスピーカーでは聴き取りにくい箇所に、意味ありげで表情豊かなフレーズが多い。柴田南雄は、『グスタフ・マーラー』(岩波新書)第2章において、「マーラーはレコードで聴くのとナマで聴くのでは、どうしても大差がある」「マーラーでは、アマチュア・オーケストラの演奏であろうと、ナマに如くはないと頑固に信じている」と書いている。基本的に、編成の大きな曲ほどライブでないとそのダイナミックスについて行けないという現象が起きるのだが、それでも、ショスタコーヴィチがライブ向きであることは、マーラーの比ではない、と私は思う。残念ながら、仙台で5番以外の交響曲を聴くチャンスというのはなかなかない。だからこそ、今回の仙台フィル定期が特別なイベントだったのだ。
高関健という人が、希代のオーケストラトレーナー、音楽学者であることは論を待たない。とてつもない演奏だった。いつの間に、仙台フィルはこんなに優れたオーケストラになったのか、とも感嘆した。あまりにも濃密な「火の玉」のような音楽が、時にフォルティッシモ以上の音量で、わずか900人しか入らない青年文化センター(日立システムズホール)に鳴り響く。その強烈で暗いメッセージ性もあって、第2楽章あたりでは、このまま聴き続けると、私は気を失うのではないか、と思ったほどだ。いかなる音楽でも、聴きながらそんな不安にとらわれたことなどない。恐ろしい音楽体験であった。