寛容な組織の中で・・・登山部顧問会への感謝

 昨晩は、仙台市内のホテルで高体連登山専門部の主催による「退官記念祝賀会」なるイベントが開かれた。定年を迎える現職の顧問2名とともに、私はなんと「主賓」である。
 もっとも、私は現在、美術部の顧問であって、登山部の顧問ではない。したがって、名簿に記載された肩書きも「元顧問」である。委員長から、こんな会を開くので出て欲しい、と電話がかかってきた時、申し訳ないなと思って多少の押し問答をしたのだが、結局、お言葉に甘えることにした。
 会の席上、次のようなご挨拶をした(加除訂正あり)。

「私が初めて登山部の顧問としてこの会に関わったのは、平成7年です。まだ白石女子高が山小屋を持っていて、そこで顧問の冬山研修会をやったりしていた時代でした。それから27年が経ちます。ただし、今もそうですが、勤務先の学校に登山部がなかったりもしたので、本当に顧問として関わったのは17年に過ぎず、残りの10年は、大会の時などに『派遣依頼』の文書をもらって助っ人に来たり、街中での酒席に呼んでもらったり、というお付き合いでした。
 私は、父が山好きだったので、小さい頃から山に親しみ、中学校くらいからは自分一人でも山に入るようになりました。高校の教員になった時、基本的に部活動が嫌いな私は、できれば部活の顧問などやりたくなかったのですが、やるとしたら山岳部がいいな、と思っていました。それが実現したのは、石巻高校に異動して2年目からです。
 しかし、私は決して登山専門部にとって『いい』顧問ではありませんでした。なにしろ大会が大嫌い、どうして登山を競技にしなければならないのか理解不能、という人間で、組織にも大会にも斜に構え、あまり深く関わらないようにしていたのです。私は一度として生徒を大会の下見に連れて行ったことはなく、一度として賞状をもらったこともありません。それをむしろ誇りにしていたくらいです。
 しかも、私は顧問になった頃、C型肝炎を患っていて、お酒が飲めませんでした(→C型肝炎の記録)。そんな私にとって、当時登山部顧問に大酒飲みが多かったことも、この組織が苦手だった理由の一つです。ところが、仙台一高に勤務していた頃、医学の発達というよりは薬学の発達によって、C型肝炎が治りました。元々好きだったお酒が飲めるようになったことが、登山専門部との関わりを劇的に変えたような気がします。
 堅苦しいことを考えず、大会を交流会だと割り切ってしまえば、登山部の先生方とのお付き合いは楽しいものでした。以後、最初にお話ししたような形でこの専門部と関わってきました。おそらく、小中高とバリバリ山登りをしてきたというような人がいないことが、他の専門部との違いであり、そんな中で生まれた寛容さが、斜に構えていた私にも居場所を与えてくれた、ということなのだろうと思います。
 今日、『元顧問』として呼んでいただきましたが、思えば、今年定年を迎える元顧問は私だけではありません。かつて副委員長を務めた○○高校校長K先生などは、その代表格かと思います。なぜか、私だけが祝われる側としてこの場にいることは申し訳ない気がします。登山部のない学校に異動した際、比較的活動低調な部活の顧問になり、『派遣依頼』1枚あるいはメールか電話1本で、大会にも宴会にも参加できたからだとは思いますが、こうして大事にしてもらえたことは感謝に堪えません。本当にありがとうございました。
 定年とは言え、来年度以降も、再任用という形で、今までとまったく同じ勤務が続きます。引き続き、何かの時には、呼んでくださればすぐに参上します。今後ともよろしくお願いします。」

 寛容な組織の中で居場所が与えられ、学校内でも運動部顧問として一定の尊重をされることになった。バスケットボール部で、サッカー部で、硬式野球部で顧問をすることを強いられていたら、果たして私の教員生活はどうなっていただろう。想像しただけで、背筋に寒気が走るほどだ。そのことが直ちに、登山専門部に対する感謝に転化される。昨晩も美味い酒が飲めた。