花盛りの奈良(1)

 奈良では、車を借りて、公共交通手段では比較的回りにくい所を集中的に回るつもりだった。本当は、一度「山辺の道」を歩いてみたかったのだけれど、時間の都合で今回も断念。そのうち1人で出直そう(と繰り返しながら20年以上が経った)。特に行ってみたかったのは、長谷寺室生寺談山神社浄瑠璃寺、長弓寺といったあたりである。公共交通手段でこれらを回ろうと思うと、意外に時間がかかる。
 長谷寺に向かう途中、大きな鳥居が見えた。大神(おおみわ)神社の鳥居だ。後から知った話、高さは32mある。熊野の大斎原(おおゆのはら)に建っていた鳥居が、高さ34mだったから、だいたいよく似た大きさだ。予習の不足もあって、それほどの神社とは思っていなかったのだが、この鳥居を見ると、立ち寄ってみないわけにはいかない。
 なにしろ背後にある三輪山(467m)がご神体みたいなものなので、拝殿もずいぶん上の方にあるのではないかと心配したが、まったくそんなことはなく、すぐに拝殿に着いた。鳥居から想像できるとおりの立派な神社だ。本当は、三輪山にも登りたかったのだけれど、今回の目的地ではないので、拝殿でご挨拶だけして、すぐに長谷寺(はせでら)に向かう。
 長谷寺は本当に素晴らしかった。桜満開で快晴という条件もあったけれど、斜面をとても上手く利用した伽藍配置、回廊が変形したかのようなZ型の坂とも階段ともつかぬ独特の登廊、舞台式の本堂(国宝)、戦後の建築とは言え、均整が取れた檜皮葺の美しい五重塔・・・。車がすれ違えないほど細い門前通りの風情もよい。近くで取れるヨモギを使ったよもぎ餅が名物らしいが、ある店では、店先で臼を使って餅つきをしていた。そんな周囲も含めて、とても魅力的なお寺だ。
 次は室生寺(むろうじ)。野外に建つものとしては日本最小(16.1m)という五重塔は見てみたかった。小川三夫『宮大工と歩く奈良の古寺』(文春新書)によれば、この塔の特徴は、小さいということだけでなく、その割に柱が太いという点にあるそうだ。確かにその通り。私のような素人の目でも、その特徴はよく分かる。同時に、なぜ大工がそのような作り方をしたかと言えば、人間が塔を見る時は塔全体を見るのに対して、柱を見る時には塔全体の中の柱ではなく、柱だけを見ている、ということが分かっていたからだ、ということに気付く。
 奥の院に登る石段は、決して長くはない。標高差も山門からで100mしかないらしい。その割には急で、登りがいを感じるものであった。奥の院=御影堂の向かい側に建つ舞台造りの位牌堂からは、室生の集落が見える。里山に抱かれた桃源郷といった趣だ。
 室生寺を出た後、せっかくだから三輪そうめんの産地で三輪そうめんを食べようと言いながら店を探したが、そうめんを売る店は見つかるものの、食べさせる店が見つからない。30分探してあきらめた。
 多武峰(とうのみね)の談山(たんざん)神社に行く。世界で唯一の木造十三重塔を持つことが、建築の上では有名だが、歴史の上では中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿暗殺、大化の改新の謀議を凝らした場所として知られる。「談山」とは、「談いの山(かたらいのやま)」、すなわち2人が語り合った山という意味である。境内もそこそこ立派だが、せっかくなので裏山、すなわち談山=御破裂山(ごはれつやま)に登る。私の足で、境内から10分あまりだ。標高566mの所にあるちょっとした広場に、「御相談所」と掘られた石柱が建っている。さほど古いものには見えなかった。そこから更に一段上ると、頂上の手前に鳥居があり、頂上に藤原鎌足が埋葬されたと記されている。頂上には登ってはいけないようなので、裏に回り込むと、「藤原家墓」と刻まれた墓石(五輪の塔)があるが、新しいどころか、令和に入ってからのものかというようなピカピカのお墓である。折から、タクシーで乗り付けてきた人がいて驚く。車が入れるんだ!?
 歩いて下りる途中、下から3分の1くらいの所で、息を切らした二人連れの女性から、頂上までの時間と、そこに何があるか尋ねられたので、見た通りを説明すると、彼女たちは上る意欲を失ってきたようだった。私は「どれくらいしょうもないかということも、実際に行ってみないと分かりませんからね」と付け足した。
 談山神社から明日香村までは驚くほど近い。少し坂道を下ると、すぐに石舞台古墳の前に出た。広場になっていて、家族連れがたくさん来ていた。2時間ほど歩いて岡寺と橘寺を回った。まずまずいいお寺だ。
 飛鳥は、道が狭く、駐車場も多くが有料で、車で回るにはあまり便利な所でない。しかし、それはいいことである。しかも、歩道はしっかりと整備されている。こののどかな場所は、車でせかせかと見て歩く場所ではない。まるまる一日掛けてのんびり歩いて回るべき場所なのだ。「大和は国のまほろば」。少し俗気さえ漂うそんな言葉が、この時ばかりは、確かにそうだと納得させられた。