レニングラード(1)

 今日は1日ドックということで、石巻の日赤病院に行ってきた。我が家から車で15分くらい。建てられてさほど時間が経っていないぴかぴかの建物で、検診は順調に終わった。これは、私が1日ドックで世話になった3つめの病院である。おそらく、1日ドックにはどのような検査をするかについてのガイドラインのようなものがあって、病院による差はさほど付かないようになっていると思うのだが、こうして何カ所かで検診を受けてみると、意外に違うものである。検査項目の違いはともかく、決定的に違うのは、昼食の有無・質と医師の診察である。病院によっては、その日の結果を前にして説明し、こちらの疑問を引き出そうとしてくれるが、病院によっては、極めて義務的に聴診器を当ててそれでおしまい、である。はっきり言って申し訳ないが、我が地元石巻日赤は最低レベルだったな。結果は、3〜4週間後に郵送されてくるそうだ。


 さて、昨夜はEテレで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮ショスタコーヴィチ交響曲第7番の演奏会の録画を見た(9月16日N響第1867回定期)。「レニングラード」と名付けられた、70分以上にも及ぶ大曲である。ヤルヴィは旧ソ連エストニアの生まれで、父親も指揮者(ネーメ・ヤルヴィ)だった関係などあり、幼い頃からショスタコーヴィチに頭をなでられながら育った、という話は以前聞いたことがある。相変わらず明快な指揮棒さばきと、一見無表情でありながら人間味が滲み出ている表情を見ているのも楽しく、その快演を飽きることなく眺めていたのであるが、一方で、ショスタコーヴィチという作曲家の交響曲は、マーラー以上にライブでこそその真価が表れる、逆に言えば、録音ではその本当の素晴らしさが今ひとつしっかり伝わってこない、というもどかしさを感じながらの70余分でもあった。
 この曲には、『戦火のシンフォニー』(ひのまどか著、新潮社、2014年。以下『戦火』)という優れた研究書(ノンフィクション?)が出ている。ヴァイオリニストである著者は、2003年にサンクト・ペテルブルグ(レニングラード)の戦争博物館を訪ね、この交響曲の初演の事情を知って驚愕し、60の手習いでロシア語を学び、10年がかりでこの本を完成させた。正に「労作」である。エピローグの最後に書かれた一文、「一つの音楽作品が、これほど巨大な歴史的・政治的・社会的背景を持って生まれ、その演奏が、これほど膨大な人間ドラマを生んだ例を、私は知らない」は、著者の10年間に及ぶ困難な作業の果ての実感であろう。
 『戦火』には、「レニングラード封鎖345日目の真実」という副題が付いている。レニングラードはドイツ軍によって包囲され、兵糧攻めされた。その始まりが1941年8月30日で、それから345日目である1942年8月9日に第7交響曲レニングラードで演奏された。封鎖されている間のレニングラードの惨状は、読んでいても苦しくなってくるほどだ。それだけに、あらゆる困難を乗り越えて第7番の演奏にこぎつけた指揮者、エリアスベルクを始めとする人々の壮絶な努力は感動的である。
 一方、ショスタコーヴィチに関する著者の叙述にはトゲがある。


「2月13日にショスタコーヴィチが《イズベスチア》紙に書いた論文で強調した言葉、〈私の夢は、近い将来《交響曲第7番》が私の故郷であり、私にこの作品への霊感を与えてくれたレニングラードで演奏されることです。〉あれは、ムラヴィンスキーレニングラード・フィルの演奏を念頭に置いた言葉だったのではないか?それゆえ、(注:レニングラードの)ラジオ委員会が4月6日にショスタコーヴィチにスコアの入手への協力を求めた際も、積極的に動かなかったのではないか?スコアが3ヶ月も経ってから届いたのは、他のオーケストラがレニングラード初演を行うのを望まなかったからではないか?ノボシビルスクで得た満足感で、彼の中の《第7番》は完結したのではないか?疑い出せば切りがないが、私はずっと、どうしてスコアがすぐに来ないのか不思議に思っていたのだ。後に、合点が行く一通の「電報」に出逢ってしまう。」
(注:ショスタコーヴィチレニングラード封鎖の直前、政府の命令によってクイビシェフに疎開させられた。交響曲第7番はクイビシェフで完成、1942年3月5日に初演され、その後、モスクワでも演奏されたが、その時の指揮者はサモスード。ムラヴィンスキーレニングラード・フィルによる演奏は、初演から4ヶ月あまり後の7月16日にノボシビルスクで実現した。)


ショスタコーヴィチは、ラジオ委員会から〈可能な限り、作曲者の出席を期待する〉と伝えられていたにもかかわらず、初演を始めとするどの回にも現れなかった。代わってラジオ委員会気付でエリアスベルクに、彼からの電報が届いた。消印は16日で、電文は極めてそっけなかった。〈親愛なる友よ ありがとう オーケストラの皆に 熱い感謝を伝えてくれ 元気で お幸せに じゃあ ショスタコーヴィチ〉」
(注:レニングラードのラジオ・シンフォニーは、8月9日の最初の演奏(レニングラード初演)の後、その月のうちに5回、この交響曲を演奏した。)


 著者がこのような言い方をするのは、ショスタコーヴィチがこの作品を「私はこの《交響曲第7番》を(中略)私の故郷レニングラードに捧げます。」(《プラウダ》)と語っていたにもかかわらず、レニングラードへの同情や献身が感じられなかったからである。(続く)