中原中也を知るということ



 吉田秀和氏が死んだ。97歳。私は、今までも訃報をしばしば取り上げてきたが、その多くは、新聞に訃報が出たとはいえ、一般的にはさほど有名ではない人物である。

 今日私が吉田秀和氏を取り上げるのは、亡くなった高名な音楽評論家としてではない。訃報を前にして私が抱いた感慨は、これで直接中原中也を知る人は誰もいなくなった、というものであった。この場合、「知る」というのは、接することで影響を受けるということである。近所のお兄ちゃん、といった形で直接知っている人なら、まだいるかも知れない。

 他の人が若い頃にどのような文学体験を持っているかは知らないけれど、私は高校卒業直後のある時期、小林秀雄中原中也の作品を取り付かれたように読んでいた。だから中原について書き始めると、自分自身の若かった時代に対する感傷もあって、おそらく際限のないものになってしまように思う。中原を直接に知る最後の人物が死んだことを機に、それと関係のある部分でだけ語るならば、泥沼にはまり込まずに済むのではないか?今日、私が吉田の死に触れるのは、その範囲においてのみである。

 昨日の『朝日新聞』に載った吉田秀和氏の「評伝」に、中原に関して次のような記述があった。

 「酒に酔ってはチャイコフスキーやマスネの旋律にのせ、気持ちよさげに自分の詩をうたう中也。「ぼくがどんなに学んでもつかみきれない音楽の本質を、何も勉強していないはずの中原が知っていた」。出自の異なる多くの若手作曲家を束ねる柔軟さは、こうした中也への「降伏」を礎に培われたものだった。」

 引用として「」で括られている言葉の出典を私は知らない。しかし、確かに吉田秀和が中原を語った文章には、幾たびか、中也の朗読とその音楽性とが語られる。

 「中原がマスネの『悲歌』が好きだったのは有名な話だが、彼がこの失われた青春を悼む歌(=「朝の歌」)をうたうと、きちっとリズムにのった歌声に、原曲のもっているオペラ的な甘ったるい身ぶりのかわりに感情の真実がのりうつって出てきて、きくものの心をうたずにおかなかった。(中略)リルケは「音楽は、ないものまであるようにみせるから」警戒しなければいけないといった。それも事実だけれど、私には、在りし日の詩人をいちばん切実によみがえらせるのも、また音楽なのだ。」(「中原中也のこと」吉田全集第10巻所収)

 残念ながら、文字を通してしか中原に接することの出来ない私には、中原の音楽的な本質というのは理解できない。そして更に、吉田は言う。

 「私はたしかに中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼を見、彼の言葉を聞いていたのだろうか?こういう魂とその肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無類の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原中也の歌う声しか聞こえやしない。」(同前)

 中原の最も重要な部分に歌があり、それは録音はおろか、吉田が耳にしたという以外に記録も残されていないとすれば、私たちは中原の非常に重要な部分を欠落させた上でしか、中原を知ることが出来ないということになる。小林秀雄大岡昇平なら、中原を思い出し、記録することが出来るように書いてはいるが、それは吉田が東大仏文の大先輩に気を遣っただけのことで、吉田が言うような中原の本質は、決して語ることも書くことも出来るものではない。

 このように直接知る人だけに分かる何かがあるというのは、どんな人についても言えることだし、それを承知の上で、作品が作者を離れて生き続けるというのも、誰についても言えることだ。しかし、中原中也という特殊な詩人については、また格別なのではないだろうか?吉田が死ぬことで、中原は遠くなった。それは、他の作家について起こった同様の出来事とは次元の違う重要な意味を持つようだ。