「延安」旅行案内(9)・・・楊家嶺革命旧址



 王家坪から楊家嶺は、延河に沿った一本の線の上にあるので、バスは革命記念館へ行く時と同じである。王家坪から楊家嶺までは2キロほどなので、ここも歩いていくことが可能である。

 バス停から、すぐ西の道(立派な看板が出ている)を山の方に数百メートル入ると、楊家嶺革命旧址である。中共中央が、1938年から1947年という長きにわたって置かれていた。1938年11月20日の日本軍による空爆以前、楊家嶺がどのような場所であったか私は知らない。従って、その時、なぜ中共中央が即座に(検討の時間をとることさえなく)楊家嶺に移動できたのかも分からない。この理由に触れている文献が見つからないのは、不思議と言う他ない。もともと何かがあったに違いない。中共中央がここにいた時間が長かっただけのことはあって、大生産運動(経済封鎖の中で生き延びるための自給自足運動)、整風運動(毛沢東の覇権確立のための政治抗争)、文芸座談会(文芸が自由主義的な方向に進むのを牽制し、大衆運動に結び付けることを条件とする方向性を確立させた学習会)といった有名な事件や、共産党の第7次全国代表大会が開かれたりもした。延安時代の中共を考える上で、最も重要な場所であろう。

 最初、道路の右側に入ると、すぐに中央大礼堂が目に入る。ソ連留学経験のある建築家楊作才が設計し、共産党中央機関のメンバーが自ら建築に携わって1942年に完成した、と言われている。1945年4月23日から6月11日まで、この中で、547名が参加して第7次全国代表大会(七大)が行われた。1928年6月以来、実に17年ぶりの全国代表大会である。中国共産党の歴史において、全国代表大会の間隔として最長である。途中、長征という大事件があったことなどで、開くに開けなかったのも確かだが、国民党や日本の圧力といった外因だけではなく、共産党内での路線闘争、権力闘争があったのも確かである。七大も、もともと1941年に開く方向で考えられ、場所も決まっていたが、諸般の事情で延期が重ねられた。途中にあったのは「整風運動」という権力闘争である。それを通して、毛沢東の権威は確立された。その仕上げが七大であった。この大会の席で、初めて、参加者に毛沢東バッジが配られたことは、それを象徴する。そしてこの建物の正面玄関の上に書かれた「中央大礼堂」の文字が、整風運動で暗躍した、当時の共産党指導者の中では最も陰があって評判の悪い治安維持責任者・康生によって書かれたものであることもまた、いかにも意味ありげである。文字の上の丸窓には「1940」の文字が埋め込まれているが、この丸窓はもともと安塞という所の礼堂(ホール)に使うために作られた。ところが、安塞の礼堂が作られなかったために、こちらに流用された。1942年建築の建物に「1940」と刻まれているのは、そういう理由である。内部の壁に取り付けられている旗竿は2本1組、V字に組み合わされていて、これは「Victory」を象徴するという。

 中央大礼堂を抜けて、裏から道路を渡ると、弁公庁の3階建ての建物がある。1941年建築のこの建物は、150名くらいが入れる小さなホールと、食堂、図書室、李冨春や楊尚昆の執務室、会議室から成っている。上から見ると翼の短い飛行機のような格好をしているので、「飛行機楼」とも呼ばれる。この建物が有名なのは、1942年5月に、上にも書いた文芸座談会が開かれ、しかも、参加者全員132名の集合写真が、この建物の正面で撮られたからである。この時、毛によって召集されたメンバーは、そのほとんどが文学者・作家であった。彼らが創作の自由を言い、大衆の生活から遊離して、「高尚な」文学の世界に遊ぶことは、共産党の思想と当時の社会状況に反する。創作の自由は、抗日と革命の邪魔になるのである。座談会は5月2日に毛沢東の問題提起で始まり、23日にやはり毛が総括を行い、共産党地区での文芸の方向性を示した。座談会とは言っても、議論をした上で、最終的には毛沢東の思想を理解させ、文芸にひとつの方向性を持たせることが目的なので、「文芸講話」とも言われる。七大での決定とともに、文芸講話は、建国までだけではなく、新しい中国(中華人民共和国)の文化(文学だけではなく、音楽、美術など全て)をも長く支配することになった。

 大礼堂にしても、弁公庁にしても、物資の逼迫していた延安にしては、立派な建物だとの印象を持つ。

 弁公庁の上に上ると、毛沢東朱徳周恩来劉少奇という指導者の旧居(窰洞)がある。毛沢東が1946年8月にアメリカの新聞記者アンナ・ルイス・ストロングと会見したのはここだし、1939年7月、周恩来が、乗っていた馬が暴れたことによって、終生右肘が曲がったままになるという大怪我をしたのは、ここに住んでいた時期のことである。

 以上の他、当時の楊家嶺には、組織部、宣伝部など12余りの部局があった。そのうち楊家嶺の北側の斜面にあった組織部だけは、2000年3月に改修されて、参観できるようになったらしいが、私は興味関心を持っていなかったこともあって、気付かなかった。