「延安」旅行案内(10)・・・棗園革命旧址



 楊家嶺からさらに2キロ西に進むと、棗園革命旧址に至る。途中、右に今の延安大学、左に幹部学院や延安で最も巨大な建物である中国石油のビルを見ることが出来る。1944年から1947年3月まで、中共中央書記処が置かれた。毛沢東朱徳周恩来劉少奇、任弼時といったお決まりの指導者の旧居(窰洞)が保存されている他、書記処小礼堂、中央軍委員会作戦室、中央機要局、中央辦公庁行政処、中央社会部といった建物が残っている。ひとつひとつの建物は余り大きくない。広い緑豊かな庭園風の場所で、弁当でも持ってピクニックに来るのによさそうな場所だ。昔の棗園の写真を目にしたことがないので、当時もこうであったのかどうかは分からない。普通に考えれば、大生産運動のさなか、あらゆる可耕地が畑に変わっていたはずである。

 中央書記処があったことはもちろん重要だが、私には、中央社会部や中央機要局があった場所、すなわち治安維持・思想統制の本拠地との印象が強い。

 中央社会部こそが中共の治安維持組織の大本営である。昨日少し触れた「康生」がその頭目であった。棗園は、もともと国民党軍第86師団師団長であった高双成の荘園だった場所であるが、中共の組織の中で最も早くこの場所に来たのは中央社会部であった。その時、中央社会部では、この場所を「延園」と名付けた。今でも、入り口の門柱に「延園」と書かれているが、その字が康生のものであるのは、そのような歴史的経緯を表している。

 中央機要局は1942年4月に、機要科を拡充する形で改組したものである。ここもやはり康生が局長であった。彼は、中国共産党における個人情報を一手に握り、管理していた。

 書記処小礼堂は1941年の建築。1944年11月に、アメリカ陸軍部長ハーレーが延安に来た際、話し合いを持った場所であり、抗日戦争勝利の直後、重慶に国民党との談判に向う毛沢東周恩来が、戦略を練った場所である。

 中央軍委員会は、基本的に王家坪にあったが、その一部が棗園に駐在していた。1943年のことである。事情はよく分からないが、ここに常駐していた毛沢東周恩来といった最高指導者との意思疎通を良くするためではなかったかと想像する。1946年に、正式に「棗園作戦室」という、王家坪のいわば分室(分屯地)となった。

 中央辦公庁行政処は、中央書記処の日常的な事務を扱う場所である。1943年3月にここに設置された。

 これらの建物は全て低地にあるが、指導者達の住居は窰洞なので、斜面に造られていた。低地のもっとも山側、窰洞に上っていく所に、5人の書記の銅像が建てられている。高さ2.2メートル、重さ3トン。有名な彫刻家・程允賢がデザインし、ブロンズで鋳造、2006年1月13日に除幕された新しいものだ。5人とは、毛沢東朱徳周恩来劉少奇、任弼時であるが、どこにも名前が記されていない。ここに来る人、特に中国人なら誰でも分かるはずだ、ということか・・・?

 棗園の西側からは抜けられず、一度正門から外に出て、大きく回らなければならないので面倒になってしまって私は行かなかったが、この棗園のすぐ西に「『為人民服務』講話台」という場所があり、写真で見ると、山の崖に赤で「為人民服務」という文字が埋め込まれ、大きな記念碑が建っている。これは、1944年9月8日、中共中央警衛団の運動場があったこの場所で、9月5日に死んだ張思徳という人物の追悼大会が催された時、毛沢東が「為人民服務(人民のために働く)」ということをテーマとした、有名な講話を行った場所である。張思徳とは、中共中央警衛団の兵士であったが、炭焼きをしていて、窯が崩れ死亡した。私にはさほど特別な人には見えないが、毛は彼の献身性、無私の精神というものに目を付けた。どうも、毛は半ば彼を話のきっかけとして利用する形で、広く「人のために尽くす」ということを訴えたかったようである。

 面白いのは、張連義が『紅色延安』(陜西旅游出版社)の中でこの講話に触れた後で、「一切は人民のためであり、人民のために一切はある。延安時期の共産党員は正に、人民のために働くという思いを強固にすることを通して、自分自身を清廉に保ち、人民と一心同体の関係を作り上げ、群衆の誠心誠意の擁護と最大限の支持を得ることが出来たのだ」(拙訳)と書いていることである。「延安時期の共産党員は」という言葉の背後には、「それに比べて今の共産党員は」という思いが透けて見える。現在でも至る所で、「延安精神の継承」ということが訴えられるのは、このような思いによるのであろう。