「延安」旅行案内(11)・・・清涼山または延安メディア



 延河大橋のすぐ北側に、清涼山という山がある。ビルの林を抜けて延河のほとりに立てば、どこからでも見える。麓には、山の斜面にへばりつくように、窰洞住居をモチーフにしたデザインの「延安新聞記念館」がある。そのすぐ左側が清涼山の山門だ(7:00〜19:00、入場料30元)。 

 「新聞記念館」の「新聞」とは、日本語に直すと「ニュース」であって「新聞」ではない。「新聞」のことは、中国語で「報」と言う。清涼山は仏教寺院や道観(道教のお寺)があるいわば「霊場」であるが、共産党はここに、新聞社(新華社)、域内ラジオ局(新華社通報台)、書店(新華書店)、印刷工場(中央新華印刷場)などを置いた。広域ラジオ局は、延安市街地から西北に20キロほど離れた王皮湾という場所に置かれ(管理していた広播委員会は、朱徳新華社の社長など)、『辺区群衆報』を発刊していた大衆読物社は楊家嶺にあった。映画(延安電影団)は、呉筑清、張岱編『中国電影的豊碑』(中国人民大学出版社)によれば、八路軍総司令部直轄だったにもかかわらず、王家坪ではなく、鳳凰山に近い大砭溝にあった。これらのような例外はあったが、延安における情報伝達の中心基地は清涼山だったのである。だから、「新聞記念館」の守備範囲も、新聞、雑誌、映画、ラジオと、当時の延安の全てのメディアに及ぶ。清涼山の斜面に作られているのは、『解放日報』が作られていた窰洞(というよりただの横穴。本物なのだろう)を展示物として建物内部に保存しているからである。これはなかなかの迫力だ。他の展示も充実していて、興味関心のある人には見応えのある博物館である。

 清涼山の山門を入り、すぐ右に上がると、陜北公学記念亭というものがあって、石碑が建っている。しかし、いくら開校当初とは言っても、学生が数百人はいただろうから、それだけの人間を収容するスペースなど確保できたはずがない、と思っていたところ、ここに陜北公学があったわけではなく、2000年10月に石碑が建てられただけで、学校自体は、もっと東の延河のほとりにあったそうだ。

 一度もとの道に下りて、少し歩くと万仏洞という横穴があり、ここが中央印刷場という延安で最も重要な印刷工場の跡である。清涼山にある旧跡は、いずれもただの横穴で、碑が建っているからそれと分かるというだけなので、ただ見ているだけでは決して面白いものではない。他に、新華通訊社、解放日報社、新華広播電台、中央印刷場制幣場といったものの旧跡がある。しかし、新華広播電台(ラジオ局)は前述の通り、王皮湾という場所にあったことがはっきりしているので、これは新華社通報台(域内ラジオ局)の間違いであろう。

 一方、清涼山は急な山で、樹木もほとんど生えていないので、どこでも見晴らしが非常によい。延河を挟んで反対側に市街地や宝塔山がよく見える。

 また、新聞記念館の東側には「延安劇院」という劇場があるが、さらにその東、東関大街の繁華街に入る所で左を見ると、毛沢東親筆で「解放日報」と書かれたアーチ型の門が目に入る。この門が当時のものであるかどうかは分からない。ここを入っても、清涼山の解放日報社旧址には行けないが、ここから山の方に続く細い曲がりくねった道を上へ上へと上っていくと、見晴らしの良い尾根に出、更に上ると急な階段があって、その上に大きく由緒ありげな道観(太和山道観)がある。この道観に入るには2元の拝観料が必要だが、この道観の裏手から清涼山に抜けると、2元で清涼山見物も可能である(裏技)。ただし、私は太和道観から下ったので問題なかったが、下から上がるのはスラムのような場所の路地を抜けるだけに、初めての人には勇気が要るだろう。

 新聞記念館で、劉妮編『清涼山記憶』(三秦出版社)という本を買った。前半で、各メディアの歴史を叙述した上で、後半には回想(証言)を集めてある。清涼山を中心とする延安のメディアの歴史を知るには大変よい本である。それによって、私は多くを知ることが出来たのだが、意外にも思い、興味を引かれたのは、延安にいた一人の日本人女性についてである。

 1940年12月30日、共産党として初めてのラジオ局「新華広播電台」が王皮湾に誕生し、1日2時間の放送を開始した。日本労農学校について書いた際に、1940年に周恩来野坂参三をモスクワから連れてきたという事に触れたが、その野坂が日本語放送の必要性を訴え、中共中央が意義を認めた結果、1941年12月3日から、毎週火曜日に日本語放送が行われるようになった。

 マイクに向ったのは原清志という女性であった。この人は、日本共産党に所属し、本名を原清志子または前島清子といった(どちらかはっきりしない)。1937年3月、日本に留学していた進歩的中国青年の影響を受けることで中国にやって来て、革命に身を投じ、中国籍を取得した。1941年10月、朱徳の指示で延安に入って、日本語によるラジオ放送の準備に参加し、その後アナウンサーを務めるようになった。原稿を用意していたのは、王家坪の敵工部であった。中心にいたのは、やはり野坂参三であろう。

 延安にいた日本人は、労農学校の学生を除くと、野坂参三だけだと思っていたが、そうではなかった。しかも、延安に来た経緯を見ると、この人はよほど強い信念があって、中国に渡って来たと思われる。相当目立つ存在だったはずだし、家に閉じこもっていたとも思えない。にもかかわらず、この人に接したという証言、その人柄や行動、私生活についての言及を、まったく何も見つけることが出来ない。週に一度の放送の時以外、どこに住んでいて、何をしていたかも分からない。電波発信機の故障により、1943年春には、全ての放送が中断のやむなきに至っていて、放送が正式に再開されたのは1945年9月5日のことであった。つまり、原が行っていた日本語放送は、主に日本軍を対象としており、戦意喪失・瓦解へと追い込むためのものだったので、放送が再開された時には、その必要性がなくなっていた。原がアナウンサーとして活動していたのは1年半に過ぎない。そして1943年春以降、原がどこに行ったのかも分からない。

 中国にいた共産党側の日本人と言えば、野坂参三と鹿地亘・池田杏子夫妻(1940年代は重慶在住)ばかりが有名だが、こんな人もいたのである。人にはそれぞれの、色々な生き方があるものだと思う。