「延安」旅行案内(6)・・・鳳凰山革命旧址



 1937年1月に、共産党指導部が保安から延安に移ってきた時、最初に腰を落ち着けたのが、鳳凰山の東山麓であった。延河大橋から徒歩10分。街の中心から最も近い中共指導部の遺跡である。その名もズバリ中心大街を北に歩いて行くと、左手に「鳳凰山革命旧址」と書かれた立派な門が見えてくるので、すぐに分かる。

 入場は無料。私がこれまでに書いた宝塔山や魯芸旧址は65元、30元というなかなか高額の入場料が必要だったが、実はそれら以外で入場料が必要なのは、清涼山(30元)とその麓にある「延安新聞記念館」(40元)だけで、他の「革命旧址」は無料である。西安八路軍辦事処や西安事件関係の旧跡(楊虎城や張学良の旧邸など)も無料だから、基本的に中国革命に関係した場所は、観光地ではなく、国家の原点を学習するための場所という位置づけなのだろう。宝塔山と清涼山は、旧跡と言うよりは景勝地としての位置づけだろうから、魯芸と新聞記念館だけが例外ということになる。

 鳳凰山には、毛沢東朱徳の旧居、紅軍総参謀部の建物がある。単に毛や朱の旧居というだけではなく、典型的な陜北民家としても貴重らしい。しかし、入り口の説明書きによれば、1986年に改修をしているらしいので、原型がどれだけ保存されているかはよく分からない。一部の建物の内部には、この場所の歴史的意義や当時の状況を説明するための写真や解説がべたべた貼ってあるが、延安を歩き回っていると、どこにでも同じような資料が展示してあるので、真面目に見る気は起こらなくなってくる。

 鳳凰山時代の毛沢東は、『持久戦論』『実践論』『矛盾論』といった、彼の代表作となる著作を次々に書いた時期に当たる。一方、延安時代の毛沢東のほとんど唯一の汚点であり、また建国後の乱心に結び付くような出来事、すなわち江青との結婚という出来事があったのも、1938年11月のことなので、それにまつわるドタバタは鳳凰山での話だ(この結婚ついては吉田隆英「愛人の真実−主席夫人の「結婚」」『東北大学国語学文学論集』第15号が面白い)。少し変わったところでは、1938年4月1日に、カナダ人医師、ノーマン・ベチューンがこの場所で毛に会っている。(ベチューンは、共産党の主張と行動とに共感し、共産党支配地区(解放区という)で医療活動を行うべくやって来た。彼はこの後、前線に移動して、超人的な医療活動を展開するが、1939年10月28日、手術中のミスによって敗血症にかかり、11月12日に河北省の黄石口という村で息を引き取った。その訃報に接した毛沢東は、「紀念白求恩ベチューンを記念する)」という一文を書き、その業績をたたえた。彼の伝記が小学校で必修となり、上述の毛の文章が文化大革命中に「三大必読文献」のひとつとなって、ベチューンの名は中国で知らない人のいないものとなった(R・スチュワート『医師ベチューンの一生』阪谷芳直訳、岩波現代選書)。ノーマン・ベチューンを中国語では、「諾儿曼・白求恩」と書く。現在、中国各地には、「白求恩」という名前を含む病院や医大が数多く存在する。政治家、軍人以外で、現代中国においてこれほど有名で特別扱いを受けるのは、外国人ではスノーとベチューン、中国人では魯迅と冼星海くらいではないかと思う。)

 朱徳の旧居でも、重大な出来事があった。1937年3月にアグネス・スメドレーが、朱徳の生涯を描くべく、長大なインタビューを始めたのである。その成果は、『偉大なる道』(岩波文庫)として世に出た。

 共産党の軍隊は、人民解放軍となる前、「八路軍」という名で知られているが、これは、西安事件をきっかけに、第2次国共合作(国民党と共産党の抗日協定)が成立し、国民党軍委員会の下で軍が再編された時に割り当てられた名称である。だから、国共合作に伴う軍の改編が行われた1937年7月以前は、紅軍(正式には中国工農紅軍)であった。

 1938年11月20日に、日本軍による最初の空爆が延安を襲った。延安市街地の一角とも言うべき所にある鳳凰山は危険が大きい。そのため、中共中央は即座に楊家嶺に移転した(『歴史文化名城 延安』は、空爆の日の夜中であったような書き方をしている)。紅軍総参謀部がいつどのように移動したのかは分からない。というのも、八路軍総部が置かれていた王家坪に関する資料と、なかなか整合性が見出せないからである。

 現在、鳳凰山革命旧址の西側に、毛沢東防空壕が残されている。毛のものだけではない。未詳であるが、中共本部となる前からある、宗教的な機能を持っていたと思しき大きな空間もあって、相当数の人が待避できるようになっている。こちらもまた、「一見」くらいの価値はあるだろう。しかし、楊家嶺への移動は速やかだったので、それらの防空壕が実際、どれだけ使われたのかは疑わしい。