「延安」旅行案内(12)・・・呉起と志丹



 延安から、エドガー・スノーが初めて毛沢東と会った保安(今の志丹)までは約70キロ、中共中央が劉志丹軍と出会って長征を終結させた呉起鎮(今の呉起)までは約130キロである。

 呉起や志丹に行くバスは、東関大街の東バスターミナルから出ている(瓦窑堡革命旧址のある子長に行くバスもここから)。呉起行きは5:20、志丹行きは5:30から、どちらも30分間隔の発車だ。ただし、志丹は呉起に行く途上にあるので、志丹へ行くバスは1時間に4本ということになる。中国のバスは、私の経験上、郊外では狂ったように飛ばすはずだから、呉起までは2時間強と推測した。ところが、その急激な経済発展にもかかわらず、バスの運行システムは以前と変わっていなかった。それは、いくらターミナルを発車しても、満席になるまで超低速で客集めを続けるということだ。私の乗ったバスの場合、わずか数キロの延安市街地を抜けるのに、出発してから1時間以上かかった。その結果、呉起までは往路4時間、復路3時間45分を要した。安易に日帰りなどできない。

 片側一車線ではあるが、呉起まで、すばらしい道が続いている。思ったほど風景は乾燥しておらず、山は地肌の見えている所の方がかなり少ない。特に延安から志丹までの間は、石油がたくさん採れるらしく、首振り式の素朴な採油機が、至る所でこっくりこっくり首を振っていた。採油施設はたくさんあるものの、全て小さい首振り式なので、たいした油田ではないと思いきや、油層は非常に厚く、現在確認されているものだけで、石油4.3億トン、天然ガス33億立方メートルの埋蔵量があるという。なるほど、延安にしても呉起にしても、ひときわ目を引く巨大な建物は「中国石油」の社屋であるわけだ。

 『中国の赤い星』に載っている志丹の写真によれば、ほとんど草木の生えていない、えぐられた黄土高原の谷底に、かろうじて人が住んでいる場所が志丹である。ところが、その写真はいったい何なのだろう。志丹の谷は広い。延安と同様、猛烈な勢いでビルの建設が進んでいて、ほとんど「大都市」と言ってよいほどに変貌を遂げている。志丹の人口は調べられなかったが、それよりも明らかに小さいと思われる呉起が14万というから、少なくとも20万くらいの人口はあるのではないかと思われる。黄土高原の襞の奥底で、人が自然の圧力に耐えながら、しがみつくように生活しているというイメージは全くない。街が発展するのは分かるが、地形が違うというのは理解できない。今の志丹の谷が、人工的に掘られたものだとも思えない。

 呉起も同様である。志丹に比べると、開発の途上という印象がより一層強いので、雑然とした感じではあるが、大きな街であることには変りがない。毛沢東を始めとする中共の本隊が、1935年10月19日にこの街にたどり着いた時、人家は11戸しかなかったというから信じがたい。スノーによれば、1年後の1936年夏の時点で、呉起鎮は共産党地区で最も工業化の進んだ場所になっていた。兵器、織物、被服、製靴、靴下の各工場があった。今は、特に工場が目立つということはない。「町は急流にのぞむけわしい粘土の丘の上に築かれており〜」とあるが、今の呉起は谷にある。おそらく、何も当時の情景を残しているものはないのだろう。

 『歴史文化名城 延安』によれば、呉起には呉起革命旧址があって、石碑が建ち、毛沢東の住居が残されており、志丹には劉志丹陵園という、劉志丹の墓園があるということである。呉起革命旧址は、バスターミナルで尋ねても、なかなかその存在を知っている人がいない。地図・看板もない。地元の人からも忘れられた存在のようだ。ようやく見つけたタクシーの運転手によれば、片道わずか5元(70円弱)くらいで行けるとのことだったのだが、私は急に訪問意欲を失い、結局行かなかった。志丹も同様で、途中下車する意欲が湧かず、バスの窓から街を眺めただけで素通りしてしまった。イメージが違いすぎて、どうでもよくなってしまったのである。なお、劉志丹陵園に行く場合、延安から呉起行きのバスに乗ると、市街地の中には入らず、バイパスを素通りしてしまうので、タクシーがつかまるかどうかは分からない。確実なのは志丹行きに乗ることである。

 一方、町の形状はさておき、この車道がなかったら・・・と思うと、移動は絶望的なほど困難に思える。スノーがこの地を訪ねた時、西安から来て延安で車道が切れ、あとは道がなかったという中、延安から保安、呉起と足を運ぶのは、旅行ではなくて冒険である。延安を出ると、スノーは川に沿って歩いたというが、川は深くえぐられ、高さこそ3〜10メートルくらいでしかないものの、時に垂直を超える壁が両岸に迫っていて、滝があったりして川から離れざるを得ない事情が生じたら行き詰まるだけである。川はもちろん泥川で、飲み水の確保も容易には見えない。標高1500メートル前後あるものの、夏の陽射しは厳しく、気温も35度近くになる。起伏は激しく、乾燥している。

 行っていないので、呉起や志丹の中国革命関連遺跡について云々出来ないが、道中の風景を一度見ておくのは悪くない。