法の精神

 4月29日の朝日新聞序破急」欄は、印象的だった。見出しは「学長にモノ言わせぬ国では」、執筆者は教育社説担当者・増谷文生氏である。
 増谷氏は、国立大学が法人化されて20年が経過したのを機に、この間の国の大学政策について、全国の国立大学学長にアンケートを実施した。そこに書かれたコメントを記事にするため、承諾を得ようと学長に連絡を取ると、ほとんどの学長が匿名を希望し、中には匿名であっても承諾しない人もいたという。氏は改めて実感したこととして、「国立大の学長の多くが、国にモノ申すことを過剰なまでに恐れるようになったこと」を挙げる。つまり、多くの学長は、政府の学術政策には文句があるが、それを口にして補助金などの配分で不利益を被るのは困るとして、自分の考えを表明できないらしいのだ。ある地方大学の学長は、「国の方針に従わないと交付金を削られる仕組みでは、大学の自治は行えない」と語ったそうである。
 大学には自治が認められている。日本国憲法に「大学の自治」という言葉はないが、「学問の自由は、これを保障する」(第23条)とあるのを根拠に、学問の府である大学には自治権があると解釈されてきた。これはおそらく、一部の憲法学者による学説ではなく定説、悪くても通説である。
 とは言え、最近は主に学長選考において、大学の自治が侵害されていると感じることが多い。今回の記事は、そのことを裏書きするものだ。
 改憲を悲願とする自民党でも、第23条については「学問の自由は、これを保障する」の「これを」を削除しようと言っているだけである。些細な文言の整理であって、内容的には変わらない。書き換える必要がないのだ。面倒な思いをして憲法を書き換えなくても、金を握っているのだから、不満を少しちらつかせるだけで、大学は震え上がって言うことを聞くのだ。まぁ、そんなことであろう。そして現状はその通りになっている。
 思えば、国連には国連憲章という憲法に相当するものがある。その前文には、次のように書かれている。上手く切れないので少し長くなるが、引用する。

「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。」(国連広報センターの訳)

 もちろん、今世界で起こっている出来事で、この憲章に反することなんかたくさんある。一部の地域の誰かが違反しているというレベルではなく、安全保障理事会で拒否権が乱用され、ありとあらゆる点でこれに反するというのが現状だ。
 結局、法などというものは、その精神を守ろうという意志がなければ、ほとんど力を持たないものなのだ。そして実際の行動は、法や理性ではなく、気分や感情によって決定されていくのだ。すると、人間は対立し、いがみあい、相手を傷つけて憚らなくなるものなのだ。これが人間の現実だ。
 さて、どうしたものだろう?国際社会を相手にするのは難しいが、せめて日本政府がもう少し法の精神を大切にするように訴えていかねば、とは思う。激しい円安を引き起こしているという国力の低下は、そんな政府の教育・学術政策による部分も大きいのだから。