仙台と野島稔氏

 日曜日のクラシック音楽館で、ピアニスト野島稔氏の演奏を少しだけ見た。クリストフ・エッシェンバッハが指揮した最近のN響定期演奏会録画が終わった後、いわば余白の部分で、わずか15分くらいだけ、氏が高校時代にリストの「鬼火」を弾いている白黒映像と、1985年だったかのN響定期演奏会プロコフィエフの協奏曲第2番を弾いた時の、第3、第4楽章の部分が映し出されたのだ。
 なぜ、そんな古い映像が放映されたかというと、先月9日に氏が亡くなったからである。肺がんだったらしい。76歳。
 現在、仙台は第8回仙台国際音楽コンクールの真っ最中。なんと野島氏はその運営委員長(実質的なトップ)である。東京音楽大学の現職の学長でもあった。肺がんなど、突然なって死ぬものではない。しばらく前から分かっていたことではなかったかと思うが、既に2011年からその任に在った学長職はともかく、運営委員長職などなぜ引き受けたのかと思う。しかも、2001年の第1回からずっとピアノ部門の審査委員長を務めてきて、今回から第3代の運営委員長になったのである。不思議だ。
 それはともかく、かつて神童ともてはやされ、日本音楽コンクールで高校在学中に覇者となり、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール第2位といった受賞歴もある野島氏の、全盛期の演奏は素晴らしかった。プロコフィエフのあの難曲を、余裕を持って弾いている感じがする。
 おそらく、指揮者の外山雄三氏との間に信頼関係があったのだろう。仙台国際コンクールで審査委員長になったのも、第1回と第2回で運営委員長を務めたのが外山氏だったからだろうし、外山氏が仙台フィル音楽監督を務めていた時期には、たびたび共演していた。そのおかげで私も、仙台フィル定期演奏会で、確か4回、氏の演奏に接したことがある。ショスタコーヴィチの第1番、モーツァルトの第12番、第13番、第24番だったかと思う。私が高校、大学時代にFMで聴いていた頃の演奏に比べると、少し教科書的で面白みに欠けるような気がした。曲目のせいだったようにも思う。ただ、高校時代以来、園田高弘や安川加寿子、中村紘子と共に、日本を代表するピアニストとして畏敬の対象であった氏の演奏に接することができたことは嬉しかった。
 そのように、仙台と深い縁のあった野島氏であるが、地元・河北新報での訃報の扱いは意外に小さかった。意外に小さいと言うよりは、一切特別な存在として認められていないかのように当たり前の訃報だった。仙台市が「楽都」を標榜し、それを代表するのが国際音楽コンクールだとすれば、その歴史全体で要職を務め、今回はトップの立場にあった功労者が死去したのに際し、もう少し大きく扱ってもよさそうなものだと、寂しさのような不満のようなものを感じた。
 そんなことで少しモヤモヤしていたところ、日曜日に見た若き日の野島氏の演奏は、そんなモヤモヤをきれいさっぱり吹き飛ばしてしまうほどの快演だった。とにかく技術的に確かで、上手いということに関しては、本当に上手いのである。76歳は少し早かったかも知れない。残念だ。合掌。