外山雄三氏を惜しむ(2)

 私が、一応中国近現代史の研究者もどきで、冼星海(しょうせいかい 1905~1945年)という人物に関する研究で博士号を取得し、『中国で最初の交響曲作曲家 冼星海とその時代』(アルファベータブックス、2017年)という著書があるということは、このブログの古い読者には分かっていることであろう。
 冼星海の代表作は「黄河大合唱」という声楽組曲である。1939年に、当時共産党の本部があった陝西省の延安で作曲・初演され、1941年に出張先のモスクワで改訂版が書かれた。
 この曲の実質的な日本初演は、1963年8月12、13日に神戸で行われた神戸労音創立13周年記念例会においてであった。「実質的な」と書くのは、一部だけなら既に演奏されたことがあったということと、全8曲からなる「黄河大合唱」を、中国での慣例に従って7曲のみ演奏したことによる。歌詞は日本語訳が使われた。
 演奏は神戸労音合唱団を中心とし、青年合唱団、関西合唱団を交えた合同合唱団(合唱指揮:桜井武雄)と、滝沢三重子(ソプラノ)、芳野靖夫(バリトン)、水島弘(朗誦)に大阪フィルハーモニー交響楽団、そして指揮者は外山雄三氏であった。そう、外山氏は「黄河大合唱」の日本初演者なのだ。
 私がこのことを知ったのは、2012年か2013年であった。私はこの演奏会がどのように企画されたのか、日中国交回復より約10年も前に、いったいなぜ「黄河大合唱」などという、日本ではあまり知られていなかった抗日戦争のためのプロパガンダソングをプログラムに入れたのか、楽譜はどうやって入手したのか・・・といったことを調べ始めた。当時の演奏に参加した古参の労音メンバーにインタビューをしに、わざわざ神戸まで足を運んだこともある。
 既に記録も記憶も失われつつあったが、かろうじて、企画の中心に立っていたのが、当時、神戸労音で事務局長を務めておられた柴田隆弘氏であったことが分かった。しかし、柴田氏は2010年頃、すなわち、私が「黄河大合唱」の日本初演について調べ始める直前に亡くなっていた。神戸労音OBのK氏によると、「柴田事務局長が前向きな人で、外山氏などと親しく、中国の歌の紹介が企画されたものと推測される」(平居宛書簡)のだそうである。ここに言う「前向き」というのは、国交回復前でありながら、中国文化に大きな関心を持っていたことを言うのであろう。つまり、K氏の説明は今ひとつ要領を得ないが、1963年8月に神戸労音の演奏会で「黄河大合唱」を演奏することは、柴田、外山両氏の意向で決まった可能性が高い。
 こうなると、どうしても外山氏に話を聞きたくなる。私は外山氏にインタビューを行うべく、あれこれと動いた。外山氏の所属事務所を通してメールを転送してもらったが返信はない。某指揮者から、誰から聞いたか明かさないことを条件に、「(電話番号なしで)住所だけなら」と外山氏の自宅を教えてもらい、手紙を出したが返事はない。外山氏が客員教授を務めていた愛知県立芸大に進んだ卒業生に取り次ぎを頼んだが上手くいかない。その後も私は、冼星海に関する新しい論文を書くたびに、「一度お話を伺いたい」と書いたお手紙を添えて送り続けた。私は、あと5年早く調査を始めていたら、仙台フィルを通してお会いすることができただろうに・・・と口惜しく思った。
 かつて、外山氏のエッセイに、「庭によくカモシカが来る」というようなことが書かれているのを読んだことがある。当然、氏が東京都心に住んでおられると思っていた私は驚いた。そして、上のようにして某指揮者から外山氏の住所を聞き出した私は、更に驚いてしまった。おそらくは別荘地なのだろうが、鉄道の駅から相当離れた長野県の山間だったのだ。なるほど、カモシカも出るわけだ。その頃既に80歳になっておられたのに、こんな所からどうやって大阪や東京にお出かけになるのだろう?と思った。本当にそんな所に住んでいるのだろうか?実は住所が違っていて、私のお手紙が届いていないからお返事がいただけないのではないか?などと疑ったほどである。新聞の訃報に「長野県の自宅で死去した」と書かれているのを見て、住所はウソではなかったようだと思った。私のお手紙は届いていたに違いない。なぜ「それについて話すことはない」とだけでも返信を下さらなかったのだろう?なんだか複雑な気分だ。
 というわけで、私が「外山雄三氏を惜しむ」という場合、単に偉大なる一音楽家が死んだことを惜しむだけではない、以上のような特殊事情がある。私から外山氏に対する一方的で妙な「思い出」である。惜しい! 合掌。(完)