日本における「黄河」の記録(2)

 ⑤の神戸での演奏会について、私は外山雄三氏にインタビューを申し込んで、まったく相手にされなかったという話は一昨日書いた通りである。
 神戸労音は「しらべ」という機関誌(「機関紙」と印刷されているが、冊子である)を毎月発行していた。演奏会は「例会」という扱いで、そのためのプログラムは発行せず、解説などは全て機関誌に書かれている。「黄河」の演奏に関する記事があるものとして私が入手したのは、1963年7月号と8月号だけである。9月号には、例会のまとめのような記事が出たらしいが、残念ながら入手できていない。
 外山氏へのインタビューが実現しなかったので、「しらべ」8月号の「練習場だより」欄から、外山氏の言葉の一部を紹介しておく。7月14日の練習の際に機関誌編集者が「中国の作品について何か・・・」と問いかけたことに対する回答である。

「今度われわれが上演するこの『黄河』は、もう25年も前の作品ですけれども、いまだに現代中国の代表的な作品としての地位を占めている、非常に内容の豊かな作品です。作曲者の冼星海はパリやモスクワでも相当長い間学んだ経歴の持ち主ですから、きっと複雑な前衛的な手法をとり扱ってみたい技術上の誘惑などもあったろうと思うのですが、それを越えて、実に単純な書法ではっきり、中国のうたをつくり出したその才能は、矢張り並外れたものだと思います。」

 このコメントは鵜呑みにできない。1ヶ月後に演奏会本番を控えた関係者に対して、意欲をそぐようなことは語れない。私は、多分に外交辞令的なものではなかったかと思っている。ただ、「黄河」をプログラムとすること自体に外山氏の意向があったとすれば、その全てを否定することもまた適当ではない。
 この演奏会だけではないが、「黄河」がしばしば日本語訳で歌われたというのは信じがたい。中国語がカタカナ表記にまったくなじまないのと同様、元々中国語のために書かれた旋律は、どうしても日本語になじまない。今、その楽譜を見ながら歌ってみても、なんだか文芸作品ではなく、説明書きを歌にしているような感じがする。原曲をそれなりに評価する私にとっても、耐えがたいほどつまらない音楽だ。
 演奏に参加していた関西合唱団は、②で第1、4、5、7、8曲を、やはり日本語訳で歌っている。どちらも訳者は坂井徳三。⑤で使われた訳は、②に多少手を加えたほとんど同じものである。第2、6曲は⑤のために新たに訳された歌詞だ。神戸労音事務局長・柴田隆弘氏から中国音楽研究会代表・小澤玲子氏に宛てた3通の書簡によれば、「井上先生」(中国通のチェリストであった井上頼豊氏と思われるが、音楽史家・井上和男氏の可能性も否定できない。どちらも関係者として別の場面に登場する)から柴田氏に対して、訳は坂井徳三氏にお願いすべきだとの意向が伝えられ、柴田氏は小澤氏を通して坂井氏に依頼したようだが、坂井氏が当時病床にあったこともあって、実際の訳は坂井氏の妻・照子氏と小澤玲子氏によって行われたようだ。
 「黄河」は30分弱の曲である。当日は「黄河」に先だって、プロコフィエフの交響的物語「ピーターと狼」、ベートーベンの交響曲第5番が演奏された。驚くべき統一感のないプログラムである。
 演奏については、私の知る範囲で4つの評が書かれた。私が直接見たことがあるのは2つである。一つは、9月3日付け「アカハタ(現赤旗)」に小澤玲子氏が書いた11段組みの巨大なものである。氏は、「全曲暗譜で、情熱をこめ、心を一つにしてうたわれた二百名の力強い大合唱は、期待にそむかず、全聴衆にすばらしい感動を呼びおこした」とした上で、その感動を「冼星海が生きていた時代と、いまわれわれがおかれている日本の現状とが共通性をもっているためである」としている。「日本の現状」とは、アメリカ帝国主義への従属であるとして、かなり政治的な論調の部分も多い。
 もう一つは、週刊「音楽新聞」(1984年に廃刊?)に出た猪野美子氏によるものである。こちらはかなり手厳しい。「胸に一種の共感をもたらす」と評価しつつも、「旋律はかなり単純で、単調で、たとえば、プロコフィエフのオラトリオに比べると、音楽的感興という点でははるかに盛り上がらない。(中略)演奏は力演の割に合唱部分がひびきがわるく、独唱もボリューム不足で期待に反した」と書いている。
 また、私はまだ直接は見ていないが、松本勝男という音楽評論家による評が、読売新聞と雑誌「音楽芸術」10月号に出たらしい。神戸労音の事務局長・柴田隆弘氏が著書『私の音楽談義』(第一書林、2009年)の中で、「『黄河大合唱』の批評をめぐって」という一章を設け、それらに触れている。それによれば、松本氏は、音楽の稚拙さ、日本人が抗日の歌を歌うことについての違和感を中心に、かなり辛辣なことを書いていたようだ。柴田氏は、柴田氏個人ではなく、例会企画部と機関紙部委員による反論を紹介している。
 私はそれらの中に、良くも悪くも、「時代の空気」としか言いようのないものを感じる。中国建国から約15年。大躍進運動の混乱はあったにしても、今ほど情報が入ってきていなかったということもあって、日本人は新しい中国に、人民(一般労働者・市民)が大切にされる国として、新鮮な期待と憧れとを持っていた。それが、現代中国の歌を歌うという取り組みであり、神戸の演奏会はその代表格と言うべきものであった。
 昨日紹介した6つの演奏会以外でも、「黄河」が取り上げられることはあったはずである。横浜と仙台とにあった「黄河合唱団」の名前もまた、この曲の知名度、影響力の大きさを物語っているようだ。サカイ・トクゾー訳編『中国解放詩集』(ハト書房、1953年)で、柯仲平「星海の死をいたむ」の訳注には、「日本でも著名な『黄河大合唱』」という言葉が見える。
 だが、1965年以降、「黄河」の演奏記録は見出せない。結局は継続的な評価に値しない曲だった、ということなのか?文化大革命の勃発に伴い、中国に対する夢が急速に失われていった、ということなのか?・・・。 (完)