日本における「黄河」の記録(1)

 昨日、冼星海「黄河大合唱」という曲の日本初演に少し触れたが、なにしろ主題が外山雄三氏だったので、そのことから外れすぎないように、話を簡略化させたりしている。せっかくなので、少し補足を書いておこう。
 「黄河大合唱」が日本で演奏された記録として、私が把握しているのは次の通りである。

①1949年10月10日 於東京・共立講堂 日中友好協会の設立集会第3部
     第1、4、7、8曲(中国語) 中央合唱団 アコーディオン伴奏
②1952年10月30日 於大阪・中央公会堂 日本中国友好の夕べ
     第1、4、5、7、8曲(日本語) 大阪青年音楽協会(関西合唱団)
     音楽舞踊詩劇として演出付き 小代義雄指揮 高州若久バイオリン
③1955年11月27日 於東京・国際スタジアム 
     日本のうたごえ1955年祭典
     第8曲(中国語) 中国音楽研究会、中国留日同学総会、
     横浜黄河合唱団、横浜華僑婦女会、仙台黄河合唱団 
④1962年9月3日 於神奈川県立勤労会館 
     黄河合唱団成立10周年記念華僑音楽会
             第7曲(言語未詳) 燎原合唱団 小澤玲子指揮
⑤1963年8月12日、13日 於神戸国際会館 神戸労音創立13周年記念例会
            序曲、第1、2、4、5、6、7、8曲(日本語)
            神戸労音合唱団、青年合唱団、関西合唱団
            大阪フィルハーモニー交響楽団外山雄三指揮
⑥1965年1月17日 於愛知文化講堂   22日 於名古屋市公会堂
            名古屋大学男声合唱団第11回定期演奏会   詳細未詳
          
 昨日も書いた通り、「黄河大合唱」には、冼星海自身が書いた二つの版がある。一つは1939年3月に延安で書いたものであり、もう一つは1941年春にモスクワで書いたものである。当時の延安は、国民党による経済封鎖のため、物資の困窮にあえいでいて、楽器の調達もままならなかった上、抗日戦争の遂行が最優先であった。音楽を生業とする専門家集団なども存在する余裕はなかった。そのため、延安版「黄河」は、非常に簡素なものである。一方、すぐに演奏することを想定していなかったモスクワ版「黄河」は、大規模なオーケストラで演奏するための曲である。序曲を付け、壮大華麗なオーケストレーションが施されている。合唱パートも複雑になっているが、特徴的なのは、第6曲の途中に「あーー」という半音階的な下降音型による女声の装飾が入っている点である。
 関西合唱団の初代団長・岡原進氏は、②を日本における「黄河」の初演であると強く訴えておられた。岡原氏は中国から引き揚げてきた詩人・坂井徳三氏から、当時日本に1冊しかないと言われた「黄河」の楽譜を借り、それを使って演奏したと言う。関西合唱団が演奏会用に印刷した楽譜を見ると、それは延安版である。「日本に1冊しかないと言われた」と言うが、誰が言っていたことなのか分からない。坂井氏が自らそう言っていただけではないだろうか、と私は想像している。当時、日本に何冊の「黄河」楽譜があったかは分からない。
 「音楽舞踊詩劇」と題されている通り、友井桜子近代バレエ団、劇団エチュード、大阪青年劇場が参加し、吉田太郎、北川鉄夫による演出が行われた。「上演台本」が作られ、それを見ると、正に合唱付きの演劇、あるいは歌劇といった趣である。これは決して突飛なことではなく、中国人による抗日戦争期における文芸活動の回想にも、歌劇「黄河大合唱」という言葉が見られる。一般大衆が退屈することなくメッセージを受け取れるように、様々に行われた工夫の一つだったのである。
 一方、⑤で使われたのはモスクワ版である。この時に使われた楽譜は、総譜も合唱用譜も私の手元にある。総譜がいつ書かれたものかは分からないが、B3版より一回り大きな「青焼き」を二つ折りにして製本した大きなもので、モスクワ版そのものではなく、冼星海の弟子であった李煥之による改訂版(手書き)である。冼星海は1945年10月30日にモスクワで客死し、遺品が中国に返還されたのは1946年秋(1月説もあり)なので、それ以降に、当時の中国で演奏できるよう、李はコントラファゴットイングリッシュホルンなど一部のパートを割愛し、長さも多少短くした版を作った。それが日本に持ち込まれた経緯は分からない。中国音楽研究会の小澤玲子氏(→この方についての記事)がどこからか入手し、それを提供したらしい。(続く)