私の学問史(11)



 高校教員になってからは、教育実践レポートを書く機会が増えた。当時は、今と違って、教職員組合の加入率が高く、教育研究集会が年に何度も行われていた。先日アップした王陽明に関する一文を除くと、私が書いたものと言えば、校内外で頼まれた雑文と教育実践レポートばかりである。教育実践レポートは、一体どれくらい書いたのか分からないし、自分自身でもほとんど保存していない(段ボール箱に眠っているものはあるかも知れない)。その中で、1990年の「合同教研(小中高合同の教育研究集会)」に出した「高村光太郎のつづけ読み」というレポートと、1992年・1993年の全国教研レポート「動き始めた高校生たち」「みやぎ高校生フェスティバル第2期実行委員会の軌跡」だけは、思い入れがあったと見えて、今も手元にある(ただし、前者はある事情で他人名義になっている)。「高村光太郎のつづけ読み」は、15年以上を経て、2007年に出た著書『「高村光太郎」という生き方』(三一書房)の下敷きになった。しかし、少なくとも私の教育実践レポートには、「学問」と言えるようなものはない。

 一方、冼星海が何者か、という問題意識は持ち続けていた。当時はインターネットもなく、短時間に広範囲を検索するということはできなかった。絶えず意識はしていたものの、仕事の多忙もあり、たいした調査ができたわけではなく、いつまで経っても冼星海は見えてこなかった。1990年頃と言えば、冼星海についてある程度の字数を費やして紹介している中国音楽研究会編『新中國の音楽』(飯塚書店、1956年)や秋吉久紀男『華北根拠地の文学運動』(評論社、1976年)という書籍が既に出ていたし、更には岩崎富久男氏による『冼星海の生涯』(全4編=作者の逝去によって未完、『明治大学教養論集』、1974〜1980年)といった大論文が存在していたのだが、私のアンテナには引っ掛かって来なかった。これは、私の資料捜索能力のお粗末とともに、当時の東北大学に抗日戦争期の文芸について関心を持っている人が皆無であったことを示している。

 私が得た初めての情報は、1990年に刊行された三省堂の『コンサイス人名辞典外国編』である。そこには、以下のように書かれていた。


「冼星海 しょうせいかい 1905〜1945中国の音楽家広東省の人。パリ国立音楽院でヴァイオリンを学ぶ。1938年延安の魯迅芸術学院音楽科主任教授。また文工団として活躍した辺区合唱団の組織づくりも行う。'40作曲の勉強にモスクワに行き、客死。代表作:「黄河大合唱」」


 私は三省堂に往復葉書で、この項の執筆者は誰かということと、どのような資料に基づいて書いたのかを教えて欲しい、と問い合わせた。三省堂からはすぐに返信があった。資料は、昔の神戸労音主催の演奏会プログラムと楽譜の裏の解説、執筆者は井上和男氏とのことだった。「井上氏によれば、村松一弥氏の方が詳しいとのこと」とも書き添えてあった。ご丁寧に、井上氏の自宅住所も書いてあった。

 ところが、この後、私は井上氏に問い合わせをしなかった。すぐ後に、東京の内山書店だったかで、汪毓和『中国近現代音楽史』(人民音楽出版社、1984年)という本を見つけたからである。そこには冼星海のために延々18ページ、丸々一節が割かれていた。『人名辞典』の記述は一気に色あせてしまった。この本によって、私には初めて冼星海が何者かが少し見えてきた。それは確かに抗日戦争期の中国を代表する作曲家だったのだ。

 『中国近現代音楽史』には、当時の中国の書籍としては珍しく、依拠した資料が明示されていた。それは『人民歌手冼星海』と『冼星海専輯』第二輯の2冊である。これらの書物は、日本国内で所蔵している図書館を見付けることができなかった。(つづく)