私の学問史(12)



 1993年、私は夏休みに北京を訪ねようと思いたった。汪毓和という人に会って、冼星海を知るための文献について、直接尋ねてみようと思ったのである。『中国近現代音楽史』の「あとがき」には、汪毓和氏が中央音楽院音楽系の所属であることが書かれていた。

 当時、中国の多くの大学は、春夏冬の長期休暇に、「短期留学」と称して、安く外国人を受け入れていた。私は、1982年に西安外語学院に3週間滞在したことがあった。午前中は中国語の授業で、午後と週末はフリー。大学が出してくれるバスで観光に行くのが基本だが、観光に参加せず、自分なりの時間の使い方をしても、言っておけば文句は言われなかった。北京に腰を落ち着けて調べごとをするには、短期留学に参加するのがいいと思った。無審査で誰でも参加できるものとは言え、短期留学生として学生証を持てるというのは、いろいろとメリットもあるのではないか、と思ったのである。私は清華大学に行くことにした。

 清華大学に着いて2〜3日経った頃、私は外国人寮の担当者に、かくかくしかじかの理由で、中央音楽院の汪毓和先生に会いたいのだが、どうしたらよいだろうか?と相談してみた。私としては、電話番号を調べたい、という程度の気持ちだった。ところが、彼は、目の前でサラサラと紹介状(清華大学の名前入り便箋に、公印ではないが、大学の印が押してある)を書いてくれて、これを持って直接、中央音楽院に行くようにと言い、地図で場所を教えてくれた。

 中央音楽院は復興門の近くにあった。守衛に紹介状を示すと、汪毓和先生の部屋を教えてくれた。現在どうなっているかは知らないが、当時、中国の大学では、ほとんど全ての教員・学生が、学校の敷地内に建つアパートや寮で生活していた。汪毓和先生の部屋も、そんなアパートの一室だった。部屋をノックすると、ドアを開けて奥様(後でピアニストであることを知った)が出て来られた。先生の著書を手に持ちながら紹介状を渡し、自分からも事情を説明すると、にこやかに部屋に招き入れ、先生に電話を掛けて下さった。先生は、大学の研究室からすぐに来て下さった。そして、私が来訪の事情を話すと、いくつか私に質問をした後、その時点で入手可能な書物をどこで手に入れればよいかを、あれこれと教えて下さった。長い時間ではなかったが、歓迎して下さっているのがよく分かり、北京に来てみてよかったと思った。

 この後、2週間ほどの間に、私は北京市内をあちらこちらと走り回った。特に、中国芸術研究院音楽学研究所の図書室という所には、毎日のようにお邪魔をした。内部参考資料としてこの研究所で作られた『冼星海専輯』は、司書の方が苦労して全4冊のうち第一輯〜第三輯を見つけ出してくれた。残りの第四輯も絶対に残っているはずだが、今は見つけられないと言い、後で送ってやろうと言ってくれた。信用ならないと思い、自分で探させて欲しいとさんざん粘ったところ、外部の人は入れてはいけない場所なのだが・・・と言いながら、書庫の奥の薄暗い部屋に案内してくれた。ほこりだらけの物置部屋で、ここから最初の3冊を探し出してくれただけでも頭が下がった。私は自力での捜索をあきらめた。約1ヶ月後、第四輯は我が家に届いた。この本は、日本国内の図書館・研究機関の蔵書として、現在インターネットを使っても見つけることのできないものである(中国の古本サイトでは見付けることができる)。現在でも、論文を書く時に、この『専輯』の第二輯と第四輯のお世話にならないことはない。

 中国芸術研究院音楽学研究所は、名前こそ立派だが、うらぶれたアパートの一隅を利用して開設されている研究機関だった。1階に図書室があり、2階から上が研究室になっていた。2階には「冼星海・聶耳室」という展示室が設けられていて、現代中国で最も有名な二人の「人民音楽家」について、多少の資料が展示してあった。一通りは見せてもらったが、決して面白い場所ではなく、「見た」という記憶しか残っていない。

 抗日戦争期に延安にあり、冼星海が教授を務めていたという魯迅芸術文学院の校友会(同窓会)事務局も紹介してもらい、訪問した。いかにも北京らしい昔ながらの胡同(路地)の奥の四合院(北京の伝統家屋)が、校友会の事務所だった。応対してくれたのは金紫光氏である。後から知ったことだが、まだ30歳前後の時期に、延安の演劇・音楽界で活躍なさった方である。ご高齢で、歯がたくさん抜けており、何を話しておられるのかがほとんど聞き取れなかったが、歴史の舞台に実際にいた方の存在感に感動した。魯迅芸術文学院創立50周年の記念品や、内部出版の資料をいただいた。延安で活躍していた人物に直接お会いしたのは、後にも先にもこの時だけである。

 残念ながら、当時の私は、抗日戦争や、その時期の文芸運動についてほとんど何の知識も持っていなかった。そのため、質問をすることすらできなかった。今、汪毓和先生や金紫光氏にお会いできたら、どれほど多くのことを質問し、教えていただくことができるだろうか、と残念に思う。(つづく)