私の学問史(13)



 帰宅してから、北京で入手した様々な書籍に目を通し、冼星海が何者かが更に明瞭になってきた。しかし、周辺情報も含めて、私が持っていた知識なんてまだまだ微々たるものだった。もちろん、「論文」を書くことなど、思いもよらなかった。大学には大きなコンプレックスがあり、畏れや後ろめたさも相変わらず強く、私にとっては足を踏み入れることなどできない遙か彼方の世界だったことも、冼星海研究をするための「壁」として立ちはだかっていた。

 仕事に追われながら、更に10年が過ぎた。2003年、私は仙台に異動となり、往復2時間半の電車通勤を始めた。何しろ、朝5時に起きる生活など初めてだったし、昼夜逆転はないにせよ、どちらかというと夜型人間だった私にとって、その通勤は楽でなかった。しかし、続けるうちに一つのパターンができてきた。往路、陸前小野から榴ヶ岡までは居眠り、他は読書の時間、というのが体調との関係で最もよい、というものだ。毎日、1時間半以上の読書時間が、いわば強制的に確保されることになった。他にできることはない。私は、懸案であった長編小説や、読み直してみたいと思いつつかなわなかった本を、手当たり次第に車内に持ち込んで読みふけった。

 暫くすると、「濫読」に物足りなさを感じるようになってきた。せっかくまとまった時間があるのだから、少し体系的な読書をしてみようと思い、最初に思い浮かんだのは高村光太郎であった。

 前々回に少し触れたが、最初の勤務校で私は、「高村光太郎の続け読み」という授業をした。教科書の文学教材があまりにも断片的である(1人の作家の作品は一つ、もしくは一つの一部)ことへの問題意識、生徒が文学体験を持っていないという現実、小林秀雄の「全集を読め」という読書論への共感、といったものに基づき、言葉遣いが平易で、人生にドラマがたくさんあるために教材化しやすい高村光太郎を取り上げたものである。私は、高村光太郎の生涯の作品の中から、詩を中心に、人生全体が伺えるように選択し、歴史的な出来事や伝記的な事項を織り交ぜながらプリントを作った。もちろん、これとて、扱った作品は彼の全作品からすれば氷山の一角に過ぎなかったが、それでも、読書さえしない高校生にとっては、新鮮な文学体験になるだろうと思ったのである。

 私は、1994年に石巻高校という進学校に異動し、「続け読み」のような授業はできなくなった。学校規模が大きく、ひとつの学年を複数の国語科教員で受け持つため、足並みを揃える必要が生じたからである。読書習慣のある生徒が多く、私が余計なことをしなくても、いろいろな形で文学体験を持つことができる生徒も多かったため、必要性が低下したという事情もあった。とは言え、授業で高村光太郎を扱うこともあったし、私の彼に対する関心は持続していた。

 「続け読み」をしていた頃は、入手が極めて困難となっていた『高村光太郎全集』(筑摩書房)が、1994年から1996年にかけて、およそ月に1冊のペースで再刊され、1998年には補遺も出版された。

 また、新しいものが嫌い、特に文明の利器には嫌悪感を持つという私にとっても、21世紀を迎える直前から、遂にインターネットというものが身近になってきた。これは、在野の人間にとっては、特に重要なことだった。「高村光太郎」の段階では、まだ論文検索サイトには気付いていないが、それまで書名だけ知っていてどうしても入手がかなわなかった書物(古書)が、ネットで見つかり、取り寄せることができるようになったのは大きかった。これほど容易に、何年も何年も探していた本を見付けられるというのは、感動的だった。しかし、このことは情報量の増大をもたらした。それ以前であれば、あきらめていた情報が手に入ったことに伴って、読まなければならない文献が増えたのである。私は気の向くままに、書物を入手したが、残念ながら読むペースがそれに追いつかなかった。『全集』を始めとして、書架に眠っていた本は多かった。

 仙台を往復する電車の中で、私は、未読の『高村光太郎全集』から読み始めた。以前読んだことがあるものも含めて、我が家にそれなりの量が蓄積されていた高村光太郎関係文献に目を通し終えるまで、どれくらいの時間がかかったのかよく覚えていない。しかし、一通りを読み終えた時、世の中には多くの高村光太郎評伝や高村光太郎論があるが、私にはそれらに付け加えるべきこと、それらのどれとも違う独特の高村光太郎観があることを感じていた。それを文字にしてみようか、と思ったのは、2005年の夏である。それは雑文と言うより著作のレベルの分量になることは分かっていたが、かといって、書いた後にどうするかを決めていたわけではない。ともかく、私は高村光太郎の整理に取りかかった。(つづく)