彫刻における文学性・・・高村光雲と光太郎



 一昨日に引き続き、録画したきり時間が経ち、ようやく見ることが出来た番組についての話を書く。5月31日放映の日曜美術館「一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」である。

 高村光雲は、言うまでもなく高村光太郎の父親。光太郎は、「木彫をしていた父光雲の長男として生まれた私は、総領は必ずその家の家業をつぐという昔ながらの伝統に従って、父の仕事をそのままつぐことが当然であると自分自身も考え、また周囲の者もそう思って少しも疑いをさしはさまなかったのである」(「幼い頃」1942年)と言い、『智恵子抄』によって国民的詩人としての地位を確立した後も、生涯にわたって自らを彫刻家と認め続けた。光雲の影響は非常に大きい。ところが、その作風はまったく違う。

 光雲が、もともと仏師屋に弟子入りし、職人として日本伝統の木彫技術を身に付けたのに対し、光太郎は父の手ほどきで木彫を始めたとは言え、明治に入ってにわかに日本に流入した西洋彫刻、中でもロダンに大きな影響を受けて、芸術としての彫刻を目指すようになった。職人的な木彫と西洋的な芸術の違いと言えば、説明はいささか面倒になるが、光太郎は作品の大半を、木ではなく、ブロンズで作った。その一事を以て、光雲と違うということだけは分かるであろう。

 私が番組を見ていて意外に思ったのは、光雲の作品の中に、文学の色が濃く表れていることである。光雲の作品の中で最も有名な「老猿」にして、私はうかつにも気付いていなかったか忘れていたかだが、猿が手に幾本かの鳥の羽をつかんでいて、それは老猿が鷲と格闘し、逃げられた後、羽をつかんだままじっと鷲の飛び去った方向を睨んでいる、というストーリーの一場面であることを表しているらしい。他にも、「白狐」であれ、「団扇の上に眠る猫」であれ、彫刻は一つのストーリーの一場面を描いていて、背後のストーリーを想像させ、感得させるように作られている。これを彫刻の「文学性」と言う。光雲の作品には、文学性があるのだ。

 光太郎も、若い頃は同様の作風を持っていた。東京美術学校の卒業制作である「獅子吼」や「薄命児」がその代表作である。ところが、光太郎はロダンを知ってから、彫刻が表現すべきは「命」であると考えるようになった。それは、できるだけ対象を実物に似せて作ることによっては生まれてこない。もっともっと抽象的で、直感的な、対象に内在する「命」の存在感なのである。そのことに気付いてから、光太郎は作品の文学性を嫌うようになった。やがて、光太郎は詩作の量を増やしていく。

「私は自分の彫刻を護るために詩を書いている(中略)。自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑してくるのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。(中略)もしこの胸中の氤氳を言葉によって吐き出すことをしなかったら、私の彫刻が此の表現をひきうけなければならない。勢い、私の彫刻は多分に文学的になり、何かを物語らなければならなくなる。これは彫刻を病ましめる事である。」(「自分と詩との関係」1940年)

 光太郎は光雲の手先の技術はほめるが、作品に対する評価は厳しい。

「父の作品には大したものはなかった。すべて職人的、仏師屋的で、また江戸的であった。(中略)大きな栃の木で作った「老猿」も部分の肉合いなどに彫刻的面白味がないではないが、大体の着想なり、表現形式が幼稚なので高くは買えない。(中略)製作態度が弛緩して、作品に俗気が多くなるに従って、世間からは大いに祭り上げられ、書画骨董商からはさかんに宣伝せられ、父も例の帝室技芸員従三等勲二等をやたらに書いた。それで全国的に父の名は高くなり、死後今日でもまだ一般人の間で父の作品は珍重せられている。」(「父との関係」1954年)

 そもそも、光雲と光太郎の軋轢が何によって生じたかと言えば、彫刻製作の考え方というよりは、もっと世俗的な、社会性とも言うべき点においてである。芸術家として、誰にも邪魔されない、孤高の道を歩もうとした光太郎に対し、光雲は多くの弟子を抱え、親分もしくは師匠として立ち回った。木彫がはやらず、伝統が絶えかけた時期に、極端に貧乏な状態に追い詰められつつ、木彫の再興を願って光雲は弟子を取った。光雲に俗っぽさ、下品さがないとは言わないが、家族や弟子の生活を支え、木彫を隆盛に向かわせるために、他の方法を採りようがなかったというのも正しい。一方、芸術を極めようと1人歩んだ光太郎は、経済的に光雲への依存から脱することが出来なかった。要は「お坊ちゃん」でしかなかったのである。 

「父の誇りとする位階勲等とか、世間的肩書きとか、門戸を張った生活とか、顔とか、ヒキとか、一切のそういうものを、塵か、あくたか、汚物のように感ぜずにはいられず、父の得意とするところをめちゃめちゃに踏みにじり、父の望むところをことごとく逆に行くという羽目になった。」(同前)

 さて、私は光雲の作品を、年を追ってたどったことはない。光雲の作品は、光雲の作とされつつ、そのほとんどを弟子が彫ったというものが少なくないと言われている。なかなか、その真の姿を知ることは難しい。だから、上に書いたような光雲の作品に見られる文学性が、光雲の生涯にわたって見られるのかどうかは知らない。だが、光太郎が彫刻の文学性を否定した時、それが本当に純粋に光太郎の芸術観に基づくことだったのかどうか、私には少し疑いの気持ちが生じている。もしかすると、それは父光雲に対する反発の一部であったかも知れない。

 明治のアカデミズムに身を置いた光太郎は、筆が立った。江戸の職人であった光雲は、文章を残していない。自分に学が無く、公の場で恥をかくこともあったからこそ、息子が本を読み、勉強することを奨励したらしい。彫刻の文学性を回避するための手段を、光太郎は持ち、光雲は持っていなかった。

 光雲のことを激しく否定する一方、光太郎は光雲の偉さをも指摘する。その傾向は、晩年に強まったようだ。しかし、光太郎の彫刻作品に、再び文学性が持ち込まれることはなかった。