高村光太郎と「天皇」(3)

 高村光太郎が「自己流謫」をするまでもなく、世間は戦時中の光太郎の言動を問題とした。1945年12月8日、日本共産党を中心とする6つの団体が戦争犯罪人追及人民大会を開き、戦犯名簿を発表した。そこには1600名の名前が載り、そのうち文学関係者は42名であったが、その中に光太郎の名前があった。続いて、1946年3月に開かれた新日本文学会東京支部創立総会で、文学における戦争責任者25名を指名したが、そこにも光太郎の名前は入っていた。言論の場における個人的な批判も相次いだ。「おのれの暗愚をいやほど見たので、/自分の業績のどんな評価をも快く容れ、/自分に鞭する千の非難も素直にきく。/それが社会の約束ならば、よし極刑とても甘受しよう。」(「暗愚小伝」第20編「山林」より。1947年6月15日)と、光太郎は心境を歌ったが、最終的に、光太郎は戦争犯罪人としては不起訴となり、公的な処分を受けることはなかった。しかし、これらの批判もまた、光太郎が山小屋に沈潜する動機の一部とはなっただろう。


日本はついに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れている。
その時天皇はみずから進んで、
われ現人神にあらずと説かれた。
日を重ねるに従って、
私の眼からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか60年の重荷は消えた。
再びおじいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱却のあとに
ただ人たるの愛がある。
(「暗愚小伝」第18編「終戦」より)  


廓然無聖と達磨はいった。
まことに爽やかな精神の脱却だが、
別の世界でこの脱却をおれも遂げる。
(中略)
よわい耳順を越えてから
おれはようやく風に御せる。
65年の生涯に
絶えずかぶさっていたあのものから
とうとうおれは脱却した。
どんな思念に食い入る時でも
無意識中に潜在していた
あの聖なるもののリビドが落ちた。
はじめて一人は一人となり、
天を仰げば天はひろく、
地のあるところ唯ユマニテのカオスが深い。
(中略)
白髪の生えた赤んぼが
岩手の奥の山の小屋で、
甚だ幼稚な単純な
しかも洗いざらいな身上で、
胸のふくらむ不思議な思に
脱却の歌を書いている。
(「脱却の歌」1947年11月2日)


 「梁」「60年の重荷」「65年の生涯に絶えずかぶさっていたあのもの」「あの聖なるもの」、これらは全て「天皇」もしくは家庭教育の成果としての「尊皇思想」を意味する。戦争が終わってから2年、天皇人間宣言をしてから1年半、光太郎はようやく「天皇」という呪縛から脱することが出来た、と言う。だが、これを鵜呑みにするのは危険である。
 確かに、光太郎は、天皇人間宣言の直後、1946年1月8日を最後に、作品に崇拝の対象として皇族を登場させることはなくなった。ところが、1947年2月11日、すなわち、正に「暗愚小伝」を書いていた時期、光太郎は日記に「紀元節につき国旗掲揚」との記述を残している。「紀元節」は今の建国記念日だが、言うまでもなく初代天皇とされる神武天皇の即位日だという伝説に基づき、今も保守派の大切にする記念日である。また、1949年11月17日のことではないかと思うが、盛岡で酒を飲み、酔った光太郎が余興として団十郎の声色を真似、「高山彦九郎ここにあり、はるかに皇居を拝す」と大声を上げ、体を前に伏せたことや(大村次信談=下に注。佐藤隆房『高村光太郎山居七年』筑摩書房、1962年)、1950年(昭和25年)11月1日、山形における宴席で、やはり余興として「高山彦九郎」を踊ったことが伝えられている(真壁仁「黒い靴−山形での高村光太郎−」。『高村光太郎全集』月報15)。高山彦九郎とは、江戸時代後期の有名な尊皇思想家である。光太郎が自分を高山彦九郎になぞらえて、皇居遙拝のポーズを取り、踊ったことの意味は小さくない。
 これらのことは、光太郎が結局のところ、天皇や皇室に対する特殊な尊崇の念を失っていなかったことを表している。戦時中と変わった点は、あくまでも尊皇思想を社会的な行動の原理としなくなったことと、作品の中で皇族に触れることがなくなった、というだけである。いったい、これだけの力を持つ「天皇」とは何なのであろうか?いや、そもそもこれは幼少期の教育というものが根深い、ということなのか、「天皇」だからこそ意識から消し去れない、ということなのか?安易に断ずることは出来ない。(続く)


(注)大村次信の談話は昭和23年11月18日のものとして、昭和25年の章に書かれている。描かれている場面は、盛岡美術学校で講演をした日の夜のことで、光太郎が美校で講演をしたのは昭和24年11月17日、昭和25年1月15日頃、同年5月1日である(北川太一作の年譜。『高村光太郎選集6』)。従って、記述に混乱があり、正しくは時期不明なのであるが、「暗愚小伝」よりかなり後の話であることは間違いがない。