高村光太郎と「天皇」(2)

 高村光太郎のような原理的思考(哲学)が出来る人間は、決して風評や風潮に流されず、「不易」を守り、それを原点として社会批判をも展開する、というのが当然の姿である。
 光太郎が留学を終えたのは1909年(明治27年)。智恵子と出会ったのが明治の末で、結婚したのは1914年(大正3年)、デモクラシー運動の開始とほぼ同時期だ。智恵子の精神異常が表面化したのは、満州事変とほぼ同時期、1931年(昭和6年)秋のこと。ここから、智恵子の精神病と日本の軍国主義化が競い合うように進んで行き、1937年(昭和12年)に日中戦争が始まったその翌年、1938年10月に智恵子は死んだ。いうまでもなく、太平洋戦争は1941年(昭和16年)12月に始まり、1945年(昭和20年)に刀折れ矢尽きて終わった。
 光太郎は戦争へ向けて急傾斜する時局において、どのような態度を取っただろうか。昨日確認したような彼の生き方からすれば、戦争に対しては批判的な立場に立ち、官憲による脅迫や弾圧にも負けずに自己主張をした、という想像が出来る。しかし、残念ながら実際はまったく逆であった。1940年(昭和15年)に中央協力会議の議員になったことから始まって、翼賛体勢の中、積極的な役割を果たすようになった。国の会議に出席しては発言し、多くの詩を書いて民心を鼓舞、若者を戦場へと駆り立てたのである。終戦を迎えたのは疎開先の岩手県花巻市であった。
 光太郎は終戦後、居を花巻市の中心部から、太田村山口という奥羽山脈の山裾に移して沈潜する。営林署から払い下げられた粗末な小屋に暮らす表向きの理由は、「自給自足の生活に立脚しながら、真の文化を創建するため」だと語る(1945年9月11日書簡)が、むしろ、戦時中の自分の行動を見つめ反省し、自分を処罰するという目的こそが大きかった。光太郎は太田村での生活を「自己流謫」と呼ぶ(詩「ブランデンブルグ」1948年1月)。
 なぜ彼のような思考形態を持つ人が、戦争に疑念も批判も示さず、唯々諾々として戦争協力への道を歩んだのだろうか?理由は従来からいくつか指摘されている。智恵子を失ったことが、彼の精神の安定を狂わせたということ。剛毅に見えながら内心は臆病で、弾圧の恐怖に耐えられなかったことなど・・・。しかし、光太郎自身によって最も強く語られるのは、そんなことではない。光太郎は、破局へ向けて生きてきた自分の人生を振り返り、1947年6月15日、20の場面からなる連作詩編「暗愚小伝」を完成させた(発表は7月1日)。そこでは、次のように語られる。


詔勅を聞いて身ぶるひした。
(中略)
天皇あやふし
ただこの一語が
私の一切を決定した。
子供の時のおぢいさんが、
父が母がそこに居た。
少年の日の家の雲霧が
部屋一ぱいに立ちこめた。
私の耳は祖先の声でみたされ、
陛下が、陛下がと
あへぐ意識は眩いた。
身をすてるほか今はない。
陛下をまもらう。
(「暗愚小伝」第15編「真珠湾の日」より)


さういふ時に鳴るサイレンは
たちまち私を宮城の方角に向けた。
本能のようにその力は強かった。
(同 第16編「ロマン ロラン」より)


 そう、天皇の存在なのである。しかも、なぜ彼がそれほど強い天皇への忠誠心を持つようになったかといえば、それは生まれ育った家庭環境、つまりは家庭教育のせいだったと言うのである(「暗愚小伝」の第1、2、4、5、6、7編で具体的に描かれている)。これは非常に奇っ怪なことだ。ヨーロッパで自我と個人主義に目覚め、昨日見たように、徹底的に父親と反目するようになった人間が、それから30年以上経ってから、なぜ、幼少時の家庭教育の影響で、天皇のために批判的自我を封じ込めて戦争遂行の旗を振らなければならなかったのか?この間、彼の詩文に天皇が登場しないのは、単に時代がそれを求めなかったからであって、天皇を思う意識は脈々と光太郎の心の奥底にあり続けていたのだろう。
 後者の引用で「さういふ時」と言われるのは、空想の中でロマン・ロランの忠告に耳を傾けていた時、である。ということは、戦時中、既に光太郎は自分の間違いに気が付いていたということになる。気が付いていながら、非常事態であることを感知すると、天皇を守らなければという意識が、その冷静な理性を圧倒してしまうのである。天皇という存在が、光太郎の心にこれほど深くくい込んでいるということに、私は驚く。だが、実は話はこれだけではまだ済まない。(続く)