高村光太郎と「天皇」(4)

 なぜ自分は戦争に加担したのか、その理由を問い、自分を見つめ、詩に表現するという作業を、光太郎は戦後約5年間にわたって続けた。そして、1950年(昭和25年)10月、それら一連の詩を一冊の詩集にまとめ、『典型』と名付けた。6月、光太郎は以下のような序文を書いた。


「ここに来てから、私は専ら自己の感情の整理に努め、又自己そのものの正体の形成素因を窮明しようとして、もう一度自分の生涯の精神史を或る一面の致命点摘発によって追及した。この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、一つの愚劣の典型を見るに至って魂の戦慄をおぼえずにいられなかった。」


 もちろん、「特殊国の特殊な雰囲気」とは、絶対者である天皇を中心として国が成り立っていたことを言う。だからこそ、「自己」というものをついに見出し切れていなかった、と言うのである。ここで、天皇を守らなければならないという意識によって、戦争に積極的に加担したのは、必ずしも幼少期の家庭教育の問題ではなく、むしろ日本という国全体の問題であった、と光太郎は感じていたことが明らかとなる。
 光太郎は、20代半ばで欧米に留学したが、その動機において重要だったのは、彼が東京美術学校の学生時代にロダンを知ったことである。ロダンを知ることで、光太郎は彫刻が「生命(ラ・ヴィ)」を表現すべきものだという彫刻観を持つようになった。アメリカで短期間師事したボーグラムに対する敬愛の情も、生涯持ち続けたと思われる。詩において光太郎の手本となったのは、ホイットマンであり、ヴェルハーランであった。彫刻においては、奈良や京都の仏像にも深い理解と共感とを示しているが、詩となると、光太郎が口語自由詩の開拓者であったこともあり、せいぜい同時代詩人と言える宮沢賢治を高く評価した程度である。思想的には、ロマン・ロランへの傾倒も非常に強かった。
 突然話を戻すようだが、つまり、光太郎は山村明義氏が『日本をダメにしたリベラルの正体』で言うところの典型的な「外国かぶれ」だったのである。それが、父や妻の死、戦争の勃発といった契機もあって、人生の半ばを過ぎてから、いわば熱心な天皇主義者、尊皇思想家とも言うべき行動を取るようになって行く。その行き着いた先が太平洋戦争であり、敗戦とともに自らを襲った挫折感、敗北感であった。この「挫折感、敗北感」を誤解してはいけない。これは戦争に負けたことが「挫折、敗北」なのではなく、自らの自我を守り通せなかったことについての「挫折」であり「敗北」だった。
 日本会議的な立場からすれば、光太郎は「西洋かぶれ」から正道に立ち返ったが、軍部が暴走して天皇を推戴し、道を誤らせたからこそ、それに引きずられる形で悲劇的な結末に達したのであって、それさえなければ、天皇を大切にし、日本の伝統を尊重する立派な人物として生涯を終えることが出来た、などということになるのだろうか?いや、そうではないだろう。日中戦争を含む大東亜戦争を、軍部が暴走して天皇の意思に逆らって起こした一時的な間違いと考えるならば、「自虐史観の否定」などに血道を上げる必要はないからである。
 そもそも、尊皇思想というのは日本人が脈々と受け継いできた「DNA」と言うべきものなのだろうか?私はこの点に決して詳しくないのだが、今日、メディアの発達によって、天皇の動静をつぶさに知ることが出来、その風貌を目にする機会も多いからこそ、天皇の存在がいかにも身近に感じられるが、それ以前、例えば江戸時代以前の庶民であれば、どれほど天皇の存在を意識することが可能だっただろうか?おそらく当時の庶民にとって、意識できたのは村の名主や、自分の住む場所を支配し、年貢を取り立てる領主までだっただろう。その上は、意識できたとしても藩主・将軍であって、天皇ではなかったのではないか?『大鏡』にたびたび描かれる、藤原氏天皇(皇族)を弄ぶような行動も、尊皇思想がとても日本の伝統とは言えないことをよく物語っている。
 おそらく、現在問題とされるような天皇への忠誠というのは、ごく一部の人々によって受け継がれてきた尊皇思想が、倒幕、大政奉還尊皇攘夷という明治維新において、国家の求心力を高めるために政策的に利用され、強められたものであって、日本会議の人たちが思っているような日本人のDNAというほどの根深いものではないのではないか?


「あの高村さんが戦争謳歌のような詩を書いたというのは、それまでの高村さんからすると、実に不思議な感じがするのだが、実は不思議でも何でもない。明治の人だということである。その詩は決して戦争賛美でもなければ、もとより戦意昂揚というようなものでもない。明治時代に青春時代をすごした日本人というものの、日本への愛情のひとつの吐露だったのだ。若い世代を残忍に死の戦場へと駆り立てたファッシスト文学者などと同一視することはできないのである。」
高見順「典型的明治人」。『文藝』臨時増刊「高村光太郎読本」1956年所収)

 
 光太郎の戦時中の詩を「戦意昂揚というようなものでもない」という見解に、私は同意できない。しかし、尊皇思想を日本人のDNAと考えるよりは、「明治」の所産であると考える方がはるかに自然な考え方に思われる。では、日本会議に集う人たちの信念となっている尊皇思想とは何なのか?これもあまりはっきりしたことは言えず、私のほとんど憶測に過ぎないのだけれども、敗戦の屈折した反動なのではないだろうか?皇室の尊重、(押しつけられた)憲法の改正、靖国神社の尊重、自虐史観の打破といった彼らのテーゼを思う時、そう考えるのが一番辻褄が合う。
 レイプが性欲によっては起こらず、優越性への渇望から起こることは、おそらく定説と言ってよい。学校を舞台としてたびたび問題となる「いじめ」も同様である、と私は思う。人間は誰でも強くなりたい。劣等感を持ちながらみじめな生き方はしたくない。だが、本当に強くなるためには努力が必要だ。いや、何か特別なことが出来なくても、他の人よりも優位な何かを持たなくても、人間は自分自身について誇りを持って生きることは可能であるはずだ。しかし、世の中には、努力というような面倒なことをするのも嫌いで、自分という存在そのものに誇りを見出すことも出来ないという人が多い。なまじっか善人であるために、人を虐げることで優越性を手に入れることも出来ない。敗戦で失意に沈んだその時に、自分たちの優越性の根拠として持ち出されてくるのが、「天皇」とか「伝統的日本文化」とかいったものではないのか?
 「有害図書」は、以上のようなことを私に考えさせてくれた。「有害」どころか、甚だ「有益」なる書物であった。なんぼなんでもデタラメが過ぎるな、と思える記述はたくさんあったが、そもそも山村氏のような考え方をする人に論理を求める方が間違いなので止める。このどう考えても埋められそうにない溝をどうすればいいのか?いずれ、「有害図書」の提供者とでも酒を飲みながら語れば、少しはその答えが見えてくるだろうか?(完)